冬の狼 1 |
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一本の松明を頼りに、暗い階段を降りていく二人の影があった。 松明を掲げて先導するのは、せむしの小男。その後に長身の男が続いている。 「ヴォルフ殿、聖騎士(パラディン)の副隊長でございますよ。一度味見をしたいと番兵どもが引きも切らず」 「罪状は何だ」 「皇妹殿下との密通でございます」 「それで投獄か。流石は鉄のレオン、粛清にも容赦がないな」 そう嘯く長身の男は、ペスト患者を診る医者が使用することで知られる嘴の尖った仮面を装着していた。 患者からのペスト感染を防ぐため、眼の部分には硝子が嵌め込まれ、長い嘴は患者との距離を取るために使われていた。 やがて辿り着いた地下牢の空気は澱み、醜悪な匂いが満ちていた。長身の男はその臭気に耐え、格子の向こうを覗いた。 「ああ、お楽しみの最中のようですな」 かつての聖騎士隊副隊長の足首には足枷が嵌められ、太い鎖で壁に繋がれていた。 一糸纏わぬ姿であった。なめし皮のように引き締まった裸体が松明の炎に照らされ、暗闇の中に浮かび上がる。その腰に番兵が取り付き、盛んに腰を振っていた。 肉と肉とがぶつかり合う卑猥な音が牢内に木霊する。 「さあ、フィーリップ、交代の時間だ」 せむしの小男に促されても、番兵は未だ獣じみた動きで腰を振っていた。 「――下がれ、下衆が」 氷のような冷たさを孕んだ男の声に、番兵はまるで雷に打たれたようにその行為を中断した。急ぎ股引を身に付け、決まり悪げな様子で牢から出てくる。 小男はしたり顔で告げた。 「抵抗が激しく手を焼いておるそうで。今日はむしろ大人しい方なのですよ」 腰に取り付いていた番兵が離れると、ヴォルフは屈辱と憎悪と義憤とが入り混じった瞳で、闖入者たちを見返した。 その白い肌には赤や青の痣や、縦横無尽に走る切り傷があった。寝台代わりの粗末な板には明らかに血と知れる黒々とした染みが付着している。 皇帝レオンハルト三世が自らの手でくり抜いたという左眼には辛うじて手当てが施されていたが、粗雑に巻きつけられた包帯には生々しく血が滲んでいた。 「選り好みをするのなら、もう片方の眼も潰せ。噛むのなら歯を抜け。抵抗するなら腕を肘から切れ、脚も膝から落とせばよい。東方ではそうした者を人豚と呼ぶそうだ」 「貴様……ッ!」 「そう吼えるな。鉄のレオンがやりそうなことではあるがな。さて、ヴォルフ、お前にはもう後がないぞ。一生この暗い地下牢からは出られず、性奴として番兵どもに弄ばれるのみだ。だが、我に従うのなら開放されよう」 ヴォルフは仮面の男に尋ねた。 「お前は……誰だ……」 「我はお前がよく知っているはずの男だ」 仮面は後頭部に回された紐で結ばれていた。それを解き、仮面を外す。そこに現れた顔を見て、ヴォルフは息を飲んだ。 「どうする? ヴォルフ」 ジジ……、暗闇の中、松明の炎は一際大きく燃え上がった。 アキテイン王国。 この時代、神聖ローマ帝国に属するあまたの領邦の中で、唯一王国を名乗る国であった。その首都はローゼンブルク、薔薇の城砦の意味を持ち、百の搭を持つことでとみに有名だった。 現国王はヴェンツェル・フォン・アキテイン。 その叔父に当たるリンブルク公爵は王冠に取り付かれた男だった。過去に幾度となく王冠を奪う企てを起こし、王族であるがゆえに死罪だけは免れていたが、その度に幽閉、蟄居の憂き目に遇っていた。 叔父が王位を狙うからには、婚姻から十年、ヴェンツェル王には未だ子が無かった。 王国の跡継ぎたる男子が生まれぬことが、薔薇の花が咲き乱れる王国の首都に、一点の暗い影を落としていたのであった……。 ――変だわ。 エヴァンゼリンは思った。 潰れた蛙を思わせるその容姿は、見誤ることなきリンブルク公爵だった。 王城の中庭にリンブルク公爵はいた。既に夜であり、人気はない。人目を忍ぶ逢引以外でこんな場所を訪れるのは、王妃が落とした首飾りを探す衣装係、つまり自分以外にはいないだろうと思っていた。しかし先客はいた。しかも大物、国王の叔父リンブルク公爵だ。 エヴァンゼリンの背後から人の足音がした。エヴァンゼリンは本能的に屈み込み、植え込みに姿を隠した。 現れたのは、意外なことに頭巾を被った修道僧だった。 修道僧は公爵に近付くなり、袖の中から小箱を取り出した。 公爵はそれを受け取ると小さく頷き、袖の下から赤い天鵞絨の小袋を取り出した。掲げる手の角度からその重みは容易に想像が付く。 恐らくは金貨。 修道僧は一礼すると素早く中庭から去った。そして公爵も又小箱を袖の下に隠すと、そこから悠然と立ち去った。 エヴァンゼリンの胸は早鐘を打っていた。エヴァンゼリンは都市貴族――ローゼンブルクの市参事会員を務める王室御用達の仕立て屋――の娘で、街娘らしく、はしっこく目端が効くため、何かにつけて重宝されていた。 まさか、という思いがあった。 だが、相手はリンブルク公爵。王冠に異様なまでの執念を燃やしているという風評が絶えない国王の叔父である。 エヴァンゼリンは植え込みの中から這い出すと、ドレスの汚れを払い、小走りに王城へと向かった。 舞踏会は盛り上がっていた。蝋燭を三重にして造り上げられた水晶のシャンデリアの下、人々は笑いさざめていてた。 エヴァンゼリンは非礼にならぬよう注意しながら、踊りに加わっていない壁側の人混みの中にリンブルク公爵を探した。 いた! 手に牡蠣の皿を持ち、微笑しながら歩いている。その先にはヴェンツェル王が座す王座があった。 まさか、でも――。ひょっとしたら。 エヴァンゼリンは足早に王妃に近付く振りで、リンブルク公爵のすぐ脇を通った。すれ違うその刹那、肘をぶつけて公爵が手に持つ皿を落とす。 「申し訳ございません、閣下」 床に頭をすりつけんばかりして謝るエヴァンゼリンを、リンブルク公爵はぞっとするほどの冷たい目で見た。 全身が総毛立った。 自分がどうやってその場を取り繕ったのか、まるで記憶になかった。気付くとエヴァンゼリンは王妃の前に立っていた。 「ございましたわ、王妃様」 「流石はエヴァンゼリンね」 首飾り発見の報を伝えると王妃は喜んだ。エヴァンゼリンは一礼すると、逃げるように広間を飛び出した。 広間から出ると一人の貴公子がエヴァンゼリンの前に立ち塞がった。 緩やかな波を打って肩に流れ落ちる髪は黄金で、瞳はアキテインの冬の空を思わせる蒼氷色。男親に似なかったのが幸い、穏やかな微笑を浮かべて立つその貴公子はカール・ブロスフェルト・フォン・リンブルク、リンブルク公爵の第一子であった。 王位継承権は父親に次いで第二位。亡き母はブロスフェルトの女公爵であり、その関係から将来リンブルクとブロスフェルトの二つの公爵位を受け継ぐことを約束されていた。 王国一富裕な公子はエヴァンゼリンに嫣然と微笑みかけると、その肩に手を置いた。そして耳元で甘く囁いた。 「ねえ、君は何も見なかった。――いいね?」 エヴァンゼリンは二度(にたび)ぞっとした。 ローゼンブルク城下。 エヴァンゼリンは頭巾ですっぽり顔を隠し、人目を憚る風情で、職人通りを歩いていた。石畳を踏む足はやもすれば小走りになりがちである。 エヴァンゼリンは王室御用達、コージモ親方の仕立て屋の店の前で足を止めた。窓からこっそりと室内の様子を伺う。仕事場の奥の台所に人影が見えた。目に見えてエヴァンゼリンの表情が変わった。 「アドリアン!」 一声大きく叫ぶなり、エヴァンゼリンは店の中に飛び込んだ。 アドリアンと呼びかけられた青年は驚き、手にしていた小麦団子のスープが入った皿を取り落としてしまった。 「ああ、アドリアン! ねえ、ねえ、どうしたら良いと思う!? 見てはいけない物を見てしまったのよ!」 エヴァンゼリンは胸の前で手を組み合わせると、台所の中を落ち着きなくうろうろと歩き回った。アドリアンは身を屈めて床に落ちた皿を拾い上げると。 「お前には悪いがな、エヴァンゼリン。俺はあまり洞察力が鋭い方じゃない。そんな風に冬眠中の熊のように歩き回られても、何のことやらさっぱり見当が付かないんだが」 アドリアンはテーブルの上で頬杖を付くと、エヴァンゼリンを見遣った。 黒い髪と黒い瞳を持つ野性的な青年である。左眼を眼帯で覆っている。少々痩せぎすの印象は免れないが、脱いだら凄いというのが本人の弁で、狼を思わせる引き締まった身体つきは武芸に秀でている事の証明であろう。 事実、青年はアキテイン国王直属の親衛隊、金羊毛騎士団の隊員であったのだ。 「ああ、そうね」 エヴァンゼリンはそこで初めて気が付いたのか、ぽんと手を打って。 「いいわ、あんたには話してあげる。だけど他言無用よ、約束して」 アドリアンは芝居かがった所作でエヴァンゼリンの前に跪いた。 「神かけて誓おう」 そこでエヴァンゼリンは昨夜の夜会であった一連の出来事をかいつまんで話した。すべてを話し終えると、口を噤み、アドリアンの反応を待った。 「皿をひっくり返したのは天晴れだな。だが、それにより余計な恨みも買う事になったと……」 エヴァンゼリンとアドリアンは互いに顔を見合わせた。長い沈黙が落ちた。 「お前が城下に戻っていることを知っている奴はいるか?」 「ええ、王妃様にお宿下がりを願い出たんですもの。王妃様付の侍女は皆知っているはずよ」 「お前ともあろう者がしくじったな。公爵の間者が侍女の中に紛れ込んでいるとは思わなかったのか」 エヴァンゼリンはたちまた耳朶まで真っ赤になり、アドリアンに食ってかかった。 「そりゃそうだけど、王妃様に無断で宿下がりする訳にはいかないじゃない。何もそんなに責めなくても――」 アドリアンには不敵に笑った。 「いいや責める理由は充分にあるぞ。つけられたな?」 エヴァンゼリンはハッと息を飲んだ。窓に張り付き、おそるおそる戸外の様子を覗う。 角に一人、男がいた。そして店の前にもまた一人。恐らく他にも潜んでいるのだろう。 「ど、どうしよう、アドリアン」 アドリアンはつと左手を伸ばし、エヴァンゼリンの頭を撫でた。右手でテーブルの下に立て掛けてあった長剣を取り、大股で戸口に歩み寄った。 額に垂れかかる漆黒の髪を掻き上げて。 「エヴァンゼリン、お前は俺の後ろに隠れてろ。戸口が狭い分、どうせ一人しか攻撃出来ない。なら相手が何人いようとも同じことだ」 言って、アドリアンは扉の横に潜んだ。 「ふふ、下調べを怠ったのが運の尽きだな。コージモ親方の仕立て屋には俺が下宿してるんだ」 その言葉が合図になったように――。 何の前触れもなく扉が開いた。 |
つづく |
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