冬の狼 2





 アドリアンは完全な不意打ちに成功した。
 不意打ちで突いた長剣の切っ先は闖入者の右肘を正確に貫いていた。直ぐに腕を引き、断続的な突きを見舞う。よろけたところで、容赦なく相手を戸口から蹴りだした。
 アドリアンは腰帯に付けていた短剣を取り出すと釦を押した。途端、短剣の刃は三叉に別れる。
 それを盾代わりに左手で構えた。
 次に仕立て屋に飛び込んできたのは、がっしりとした体躯の大柄な男だった。
 男の繰り出した力強い突きを三叉短剣で阻み、相手の身体を撫でるようにして長剣を動かす。相手が怯んだその一瞬の隙に、胴体部分に鋭い突きを見舞った。
 突いたと同時、テーブルの上に飛び乗り、距離を取る。
 男は突かれた部分を手で押さえると後退りをした。
 アドリアンは戸口に向けて、さながら宣するように言った。
「家族のいない奴から入って来い! 金羊毛騎士団のアドリアンを舐めるなよ!」
 国王直属の親衛隊、金羊毛騎士団の名は流石に効果があったようであった。
 大柄な男は戸口の所までじりじりと後退すると、パッと踵を返し、仲間に退却命令を下した。
「散れ!」
 男たちは蜘蛛の子を散らす勢いで職人通りから去っていった。
 騒ぎが収まったのを見るや、エヴァンゼリンは潜んでいたテーブルの下から這い出して来、恐る恐る尋ねた。
「――終わったの? アドリアン」
 敵を無事に撃退したというのに、アドリアンは浮かない顔つきをしていた。
「どうしたの?」 
「いやにあっさりしてると思ってね。それにお前の息の根を止めるのが目的なら、何もこんな芝居がかった行動をする必要もない。すると――」
 アドリアンはゆっくりと言った。
「ただの脅しか?」





「隻眼の親衛隊員だと?」
 ローゼンブルク城下のリンブルク公爵邸の一室。
 子飼いの騎士が届けた報告に、カール・ブロスフェルト・フォン・リンブルクは問い返した。
「その男に追い返されたと言うのか」
 カールは細く白い指を伸ばし、机の上の葡萄酒の杯を取った。
「調べれば誰であるかはすぐに判ろうな。いや構わぬ。元よりただの脅しだ」
 葡萄酒で乾いた喉を潤すと、カールは騎士を労った。
「ご苦労だった。怪我をした者がいるそうだな、後で医者を遣わそう。こたびの報酬は家令から受け取ると良い。すでに話は付けてある」
 騎士と入れ替わりに扉を叩いたのは、カールの異母弟ルードビィヒ・フォン・リンブルクであった。
「兄上……」
 ルードビィヒは赤毛の人間に特徴的な白い肌をさらに蒼白にさせていた。カールが手招きをすると、ルードビィヒは沈痛そうな面持ちで部屋に入って来た。
「また、なのですね」
「そう、まただ」
 カールは新しい葡萄酒を注ぐと弟に勧めた。
「お前も飲むか」
「頂きます」
 ルードビィヒは神妙な顔で杯を手に取った。けれど口に運ぼうとはせず、掌で温めているばかりである。カールは力づけるように言った。
「心配するな、ルードビィヒ。我らの父上を斬首になどさせぬ」
 カールは自分用にと二杯目の葡萄酒を杯に注いだ。
「毒殺するつもりであったのかな? 自然死に見せかけられる妙薬でも手に入れられたのか」
「どこで気付かれたのですか」
「父上が心に一物ある表情で、牡蠣の皿を運んでいるのを見た時だ。すぐに気付いた。あの侍女は恐らく何かを知っているのだろう。あの侍女が父上の皿を落としたのは故意だ。もっともあの豪胆な侍女がしなければ、私がしていたが」
「手遅れにならずようございました、兄上」
「毒薬を入手した伝手を洗わねばならぬ。その妙薬が手に入る限り、父上は次なる機会を伺うであろうから」
「父上はどうしてあれほどまでに王冠に固執するのでしょう」
「さあな。だが我らは公子で、父上は生まれながらの王子だ。それが理由かもしれない。父上を愛する気持ちには変わりはないが、王殺しの片棒を担ぐ訳にはいかない。ヴェンツェル王の寛恕にも限度があろう」
 ルードビィヒは今にも泣き出しそうな表情で、上目遣いに兄を見た。カールは笑って異母弟を抱き寄せた。癖毛の始末の悪い赤毛を掌でくしゃくしゃと掻き回し。
「大丈夫だ、ルードビィヒ。父上は私が守る。そしてお前もな」
「……兄上」
 繊細なルードビィヒは不安のあまり泣き出してしまい、カールはその後、弟が泣き止むまで慰めなくてはならなくなった――。





 親衛隊員としての職務を終えたアドリアンは職人通りをぶらぶらと歩いていた。
 この街に来て既に二年である。顔見知りも今や格段に増えた。それらと仕事収めの挨拶を交わしながら下宿屋――コージモ親方の仕立て屋の二階――に向かう。
 途中、路上の物売りからナツメヤシを買った。栄養価の高いそれはエヴァンゼリンの好物でもあった。次に彼女が宿下がりをした時、もしくは王城で行き会った時に渡そうと思いついたのだ。
 あの後、王城に戻るエヴァンゼリンにアドリアンはこう言い含めた。言動にはくれぐれも注意を払い、毒見の済んでいない食べ物飲み物には手を付けるな、と。
 あの襲撃が自分の見立て通りの脅しならば、恐らくそれだけの注意で事足りるだろうと思っていた。あの襲撃が意味するところは、たった一つだけだ。
 すなわち、――他言無用。
 物売りもやはりアドリアンの顔見知りであり、匙一杯のナツメヤシをおまけしてくれた。その小袋を手に、再び職人通りを歩む。季節は初夏、新緑の美しい、気持ちの良い季節であった。
 ふいに空気の色が変わったことに気付いた。
 職業柄、気配には敏感なアドリアンである。感じたのは、明らかに人の視線であった。

――誰だ……?

 巡らせた視線の先に仮面の男を見付けたアドリアンは絶句した。
「久し振りだな、ヴォルフ」
 王者の威厳を孕んだ声で、その男は言った。 





「入れ」
 アドリアンが通されたのは、街の中心にあるマルクト広場に面する旅籠屋の一室だった。寝台に腰を下ろすなり、男は言った。
「元気そうだな」
 アドリアンは答えなかった。
 男はあの不気味なペスト医者の仮面ではなく、顔の上半分だけを隠す厚革の仮面を着けていた。
「この国に来ると決めてから禁欲していた。お前にしてもらおうと思ってな」
 男は傲慢な態度で脚を広げると、アドリアンに命じた。
「咥えろ」
「――嫌だと言ったら?」
「お前の立場を改めて理解させるのみだ」
 アドリアンは跪くと、男のズボンの釦に手を掛けた。怯えを、羞恥を悟られぬよう無造作に釦を外し、既に熱く昂ぶっていたそれを引き出した。
「どうした? 恥ずかしいのか? ――お前が?」
 一瞬の躊躇、それを男は残酷にも見逃さない。
 アドリアンは瞳を閉ざすと、それを掌で包み込み、先端だけを口に含んだ。昔教えられたように舌先で鈴口を擽ると、括れの部分を頬張る。ぴちゃぴちゃと粘着質な音を立てながら、たっぷりと唾液を塗した舌で嘗め回した。
「そうだ……もっと奥まで…」
 促されるがまま、咽喉の奥まで入れた。込み上げるえづきに耐えて、咽喉で刺激を与える。そう、この技巧はこの男に教わったものだった。
 禁欲していたというその言葉を裏付けるように、男の精液は濃く、飲み難かった。喉に引っ掛かるそれを苦心して飲み下す。
「美味いか?」
 男はアドリアンの顎を掴んで上向かせた。
「下の口にも飲ませてやろう」
 男はアドリアンのシャツの襟を掴むと、無造作に引き千切った。剥きだしにされた頂きに触れ、逞しい胸筋に沿って指を滑らせていく。
「鍛錬は怠っていないようだな、良い身体だ」
 おぞましさに全身が総毛立つ。男の指はいつも冷たく、蛇が素肌を這い回っているような感触がした。
「寝台に乗って脚を開け」
 アドリアンは震える手で自身のズボンの釦に手を掛け、股引ごと引き下ろした。寝台に横たわるも、どうしても脚を開けずにいた。男は嘲るように笑い、アドリアンの脚を強引に割り開いた。
「どうしていた? この二年」
 男の屹立が窄まりに押し当てられる。
 慣らしもないまま挿れられる時の耐え難い痛みをアドリアンの身体は未だに覚えていた。恐怖に逃げを打つ身体を、男はシーツに縫い止めた。
「誰かにこの身体を使わせたか」
「まさか……!」
「自分の相手は常に女だとでも言いたいのか。だが我は知っているぞ。――番兵どもに日夜慰み者にされていたお前を、あの痴態を」
 肩を押さえ付けられ逃れられないようにされ、強引に突き込まれた。一息に奥まで挿れられ、痛みと衝撃で頭の中が真っ白になる。大きく開かされた脚が引き攣れそうに痛む。
 瞳を閉ざし、唇を噛んで、必死に呻き声を押し殺す。
 どこかが切れたのかもしれなかった。流れた血が潤滑油の役割を果たし、出し入れが容易となる。男の下生が肌に突き刺さり、アドリアンはその度に男に犯されていることを思い知らされた。
「い……ッ」
 アドリアンを組み敷きながら、男は後頭部に手を回し仮面の紐を取った。
 アドリアンは反射的に顔を背けた。だが男はそれを許さず、アドリアンの顔を正面に向かせた。
「目を見開いてしっかりと見るんだ。お前を抱いている男を、お前の罪の証を」
 まるで激しい憎悪をぶつけるかのように、男は腰を動かした。
「っ……く……」
 男は大きく腰を使い始めた。どうやら限界が近いらしい。アドリアンの奥深い場所にある男のそれが徐々に大きくなっていくのが判る。
 脚を耳に付くまで持ち上げ、何度も何度も、叩き付けるようにして上下させる。
「忘れるな、ヴォルフ。お前をあの生き地獄から救い出したのは、この……我だ!」
 狭い内壁に熱い飛沫が染み込むその感触に耐えず、アドリアンは血が滲むほど強く唇を噛み締めた……。





「――噂は耳にしている。騎士団長の信頼は厚く、ヴェンツェル王もお前に目を掛けていると」
 過ぎてしまえば狂乱の時は短かった。けれども濃厚だったその情事を終えると、男は仮面を着け直し、再び衣服を身に纏った。
「当たり前だな。お前はかりそめにも聖騎士(パラディン)の副隊長だった男だ。評価されぬ訳がない」
 夕陽が鎧戸の隙間から差し込んでいた。男と再会してからまだ幾らも時間が経っていないというのに、自分を取り巻くすべての世界が変わってしまったような、そんな気がした。
 男は背後からアドリアンを抱き寄せた。首筋に口付けを落とされ、アドリアンはその身を震わせた。
「だが私はお前に楽しい第二の人生を送らせるためにこの国に送り込んだ訳ではない。お前は私が帝国内に数多く持つ駒の一つに過ぎぬ」
 それこそが二年間、アドリアンが抱いていた疑問、恐れであった。
 男はヴォルフの傷が癒えると、完璧な紹介状とアドリアンという偽名を与え、アキテイン王国に送り込んだ。職務に励め、という言葉以外は何も与えられず、以来二年間、男からは何の音沙汰も無かった。
 コージモ親方と男の間でどんな裏取引があったかは知らない。が、アドリアンはコージモ親方の遠縁ということとなっていた。そしてコージモ親方の一人娘エヴァンゼリンはそれを信じきっていた。
 半年は怯えて暮らした。だが外国とは言え、ドイツ系が住民のほとんどを占めるこの国である。一年が経過し、周囲に馴染んでくると、アドリアンはこの第二の人生を謳歌し始めるようになった。
 二年が過ぎた今となっては、以前の生活をほぼ忘れかけていたとも言える。鏡の中に隻眼になった自分を見る時と、時折届く郷里からの手紙を除いては――。
「お前に仕事を与えよう」
 そして男の唇から漏れた言葉は、およそ信じがたい内容だった。
「リンブルク公爵と手を組み、ヴェンツェル王を殺すのだ」





つづく
Novel