冬の狼 10 |
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古代ローマ帝国の皇妃の名を取り、かつてコロニア・アグリッピナと呼ばれていたその街は、未完成の大聖堂を持つことでつとに有名だった。大聖堂の着工から既に二百年、大聖堂は未だに未完成だった。完成までに後二百年は掛かるだろうと言われていた。 「この街に来るのは初めてか?」 馬上よりカール・ブロスフェルト・フォン・リンブルクが振り返り尋ねた。 「初めてでございます」 アドリアンは簡潔に答えた。 公子は皇妹との顔合わせのため、秘密裏にこの街を訪れていた。ごく少数の供回りだけを連れ、大聖堂に巡礼に訪れる皇妹と偶然出会うという筋書きだった。 顔合わせは公子のたっての希望だったという。顔合わせの結果、破談となりでもしたら皇帝の面目が立たぬとの反対意見も根強かったが、公子はそれを押し切った。そしてその随員としてアドリアンを選び、アキテイン王から借り受けたのであった。 「供回りが少のうございますので、一騎当千の優秀な者を選りすぐりたいのです」 それが公子の主張であった。 完成時には双搭となる筈の搭は、今はまだ一つしか存在しなかったが、大聖堂は旧約にあるバベルの塔のように傲然と聳え、街を見下ろしていた。 子供の頃、この大聖堂の話を聞いたことがあった。信心深い祖父は常々言っていた。死ぬまでに一度、あの天を突く大伽藍を見てみたいと。 周囲を葡萄畑で囲まれたあの小さな村を出てから、一体何年経ったことだろう。立身出世を夢見、剣一本だけで人生を切り開けると思っていたあの小さな子供はもういない。それを無邪気に信じるには、自分はあまりにも世の穢れを見過ぎてしまった。 「アドリアン、私は――」 速度を緩め、アドリアンと肩を並べるようにして馬を歩み進めさせながら、公子は言った。 「大人になれば何でも自由にできるものだと思っていたよ。大人になれば誰の指図も受けず、好きなように生きられると。私はブロスフェルトとリンブルクの公爵だ。欲しい物は何でも金貨で購える。皮肉なものだな、生涯を共にする伴侶だけは好きに選べないとは」 「誰しもそうでございましょう。大人になれば、枷もしがらみも増えるばかり」 「私が顔合わせを強行したのはそのためだ。――選んだつもりになりたい」 「兄上」 背後から公子の弟、ルードビィヒ・フォン・リンブルクの声が掛かった。 馬を脇に寄せ、公子の隣を譲りながら、アドリアンは楽しげに会話を交わす二人を見ていた。公子とその弟ルードビィヒは腹違いだが、非常に仲の良い兄弟だと聞いていた。 この男もそうなのだろうか。 家族という名の枷にがんじからめにされて動けずにいるのか。 だとしたら、太陽と思い込んでいた王侯も、その光を受けて輝く月である騎士も、何も変わらないのかもしれない。 一行は街外れにある大司教の城館に身を寄せることとなった。 皇妹の一行は別の道を通り、明日到着する予定だった。到着に合わせて、大司教の城館では仮面舞踏会が催されることとなっていた。公子を始めとし、供回りの者も皆仮面を付けるという。 それを聞いて、アドリアンは安堵した。皇妹の随員の中にかつてのアドリアンを知る者がおらずとも限らない。いざとなれば仮病を装い、一行から抜けるつもりでいたが、遠目にでも皇妹の姿を見てみたかったのだ。 アドリアンはその晩、公子に宛がわれた客室へと呼ばれた。 アドリアンが入ると同時、小姓は追い払われ、客室に公子と二人きりとなった。 「どうだ? 私の姿は」 公子は折り襟を大きく開いたシャツに、腿に届くまで長い豪奢な刺繍入りの胴衣を合わせていた。ブリーチに包まれた肢体はすらりとしており、赤い天鵞絨のマントを身に纏って立つその姿は目に眩しいほどだった。 「よくお似合いでございます」 どうだ、ヴォルフ? ――そうだ、あの方もよくこんな風に自分に尋ねたものだった。 「どうした?」 アドリアンは虚を突かれた思いで、反射的に答えた。 「昔の主君とちょうど同じような会話をしたことがありました。それを今思い出していたのです」 「マティルデ女伯か?」 「はい」 公子の蒼氷色の瞳がアドリアンを捉えた。その瞳の奥には何かただならぬ気配があり、ぞくりとアドリアンは背筋を凍らせた。 「アドリアン、世の中を生き抜くのに、一番大事な物とは何だと思う」 「何でございますか」 「情報だ。それも死んだ情報でなく生きた情報。文で問い合わせれば、非の打ち所のない返事が返って来る」 公子は赤いマントを脱ぐと、それを無造作に床に放った。アドリアンに歩み寄るなり、細く白い指を伸ばし、唇に触れてくる。振り払おうとしたが、公子の次の言葉がそれを止めた。 「だから人をやった。成る程、騎馬試合で傷を負い、主君代えをしたアドリアンという男は実在した。だが、その傷を負った場所について尋ねると、答える者によって違う。奇妙だな」 「皆、思い出したくないのかもしれません」 「上手い言い逃れだな」 公子は背後からアドリアンを抱き締めると、耳をなぞるように舌を這わせた。男に触れられなくなって既に一ヶ月が経過していた。開発し尽くされた身体が火照る。 「近いうちに妃を迎えようという方が」 「だからこそだ。意に染まぬ相手でも受け入れなくてはならぬ」 「閣下はきっと姫を気に入るでしょう」 「なぜそう思う?」 首筋の血管に沿って舌が滑らされ、耳を噛まれる。 「…っ…、…そんな気が…するだけです」 公子の手が左眼を覆う眼帯に伸びた。いたわるように優しく撫でられ、アドリアンは狼狽した。 「貴殿はいつも何かに耐えているような風情があるな。何に耐えているのだ?」 「何も――」 開襟のシャツの袷に手が差し込まれた。指がしこったそれを探り当て、断続的な刺激を与えてくる。公子の手首を押さえ、愛撫を止めさせようとするが、公子はそれを許さなかった。指と指ですりあわされるように動かされると、はしたなくも腰が浮いた。 「っ……あッ…」 「感じやすいな? 情熱的な恋人のお陰か?」 顎を掴まれ、唇が重ねられた。舌がゆっくりと侵入して来、熱いそれがアドリアンの舌と絡まる。 「アドリアンにはアドリア海から来た人という意味がある。どうしてヴォージュ山麓にあるエルザス出身の貴殿にその名が付く?」 「それは――、私の名付け親に聞いて頂けますでしょうか」 アドリアンはゆっくりと身を引いて、公子の口付けから逃れた。 「貴殿は危険な男だ」 「私の身分をお疑いになられるのなら、なぜ私を手元に置こうとするのです」 「危険な男には監視が必要だ。違うか?」 「私は一介の騎士に過ぎません」 アドリアンは否定するように首を振った。 「遊び相手が欲しいのなら、どうか他をお当たりください。閣下に抱かれたいと思う者は、騎士の中にもおりましょう」 「結局、私が本当に欲しい物は何一つ手に入らないのだな」 「お戯れを」 自嘲混じりの公子の言葉を、しかしアドリアンは受け流した。この男もしょせんは王侯、王侯の言葉を真に受ける方がどうかしているのだ。 公子はアドリアンがかつて仕えた主君を思い起こさせた。傲慢で不遜、けれども誰よりも魅力的だったその男を。似ている部分も、まったく似ていない部分も含めて。 公子は家族を大事にしている。けれどあの男は家族を踏み付けにしても、皇帝の玉座へ続く階段を登りたがった。 ――たった一度でも。 アドリアンは逃げるように公子の客室を後にした。 ――抱かれることが出来れば、死んでも良いと思った。王侯の一時の気まぐれ、遊びでも良いと思った。 横並びの暗い部屋を縫うようにして歩きながら、唇に指で触れた。公子の唇の感触が、その口付けの余韻がまだ残っていた。 ――あの時死んでいれば、良かったのかもしれない。 アドリアンのたった一つしかない瞳から涙が溢れ、頬を伝った。 |
つづく |
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