冬の狼 11





 仮装舞踏会、それは中世の貴族が身分を隠して遊ぶために始まった遊びである。
 蝋燭の暗い明かりの下では、仮面を付けただけで相手が誰と判らなくなる危うさがある。それ故に、仮装舞踏会はしばしば情事の相手の物色に使われることもあった。
 アドリアンは紅い絹の裏地の付いた青いマントを身に纏い、カール・ブロスフェルト・フォン・リンブルクの護衛に付いていた。
 城館の大広間は人で溢れていた。
 公子は壁際に置かれた長椅子の前に立ち、婚約者の到着を待ち構えていた。昨日アドリアンに披露した華麗な礼服を身に付けて立つ公子は薄暗りの中でも際立って美しかった。
――きっと公子は姫を気に入るだろう。
 二人を知るからこその、アドリアンのそれは確信だった。
 もしも自分の正体を知るエルスベト姫がアキテインに嫁ぐこととなれば、自分はアキテインに居られなくなることだろう。
 それを承知しつつも、裏腹に上手くいって欲しいと思う気持ちがあった。エルスベト姫は兄を殺し、自分を投獄させた鉄のレオンを快く思ってはいない。むしろ嫌悪しているとも言える。
 嫁げば、きっと自由になれるだろう。
 公子もまた鉄のレオンの手駒となることに甘んじる男ではないだろう。リンブルクの公の思惑がどこにあるとしても、この二人ならば、ひょっとしたら手を携えて新しい人生を切り拓いて行けるのかもしれない。
「遅いな」
 苛立ちを露わに公子は言った。
「もう間もなくでございましょう」
 そうアドリアンが口にした瞬間、扉が開き、三人組の男たちが現れた。
 それは身体をてかてかと油で光らせ、熊の毛皮を着込んだ「狂戦士」たちであった。狂戦士とは北欧神話に登場する戦士である。北欧神話の主神たるオーディンの力を得て忘我状態となり、野獣のように荒れ狂い、死ぬまで戦う恐ろしい戦士。「狂戦士」たちは手枷を付けられ、互いに鎖で繋がれていた。
 大広間の見物人たちの間からは拍手と歓声が上がった。「狂戦士」たちは咆哮を上げ、胸を太鼓に見立てて打ち鳴らし、大広間狭しと駆け回った。
 その喧騒の最中、再びひっそりと扉が開き、ドミノ(仮面)を付けた一人の姫君が現れた。
 アドリアンはすぐにエルスベト姫の姿を見分けることができた。あれから二年と半年の歳月が流れていた。あの時、十六だった姫も今では十八になる勘定だった。長く会わなかったためだろうか、姫はひどく大人びて見えた。
 緊張しているのだろうか、姫は唇を軽く引き結び、大広間の中央部分へと歩き出した。
「あれだな」
 公子は言って、エルスベト姫に向かっていった。
 公子が声を上げると、姫は驚いたように顔を上げた。
 二人が上手くいくことを望んでいたはずなのに、アドリアンは複雑な思いを抱かずにいられなかった。
 王侯の相手は王侯だ。王侯の言葉を真に受けるのは止めようと心に誓ったばかり。
 踵を返し、大広間を去ろうとしたその時だった。
 悲鳴が上がった。
 振り返ると人が蝋燭のように燃えていた。
 狂戦士だった。
 炎は身体に塗りたくられた油と毛皮を燃やし、狂戦士は死の舞踏を踊っていた。逃れようとしても鎖は千切れず、一人から二人目、やがて三人目と燃え移った。伸びる炎の舌は瞬く間に天井にまで届く炎の柱となった。
 まさに地獄絵図であった。狂戦士たちは火達磨となり、もがき苦しんでいた。炎は絨毯から広がり、調度品の数々へと燃え移っていく。
 炎は公子のマントへも燃え移った。近くにいた赤毛の青年――恐らくは公子の弟だろう――が飛びつき、靴底で懸命に炎を消しにかかった。
「誰か! 姫が!」
 悲鳴じみたその言葉を聞き、アドリアンはエルスベト姫を目で追った。
 炎は姫のドレスの裾を燃やしていた。アドリアンはマントを脱ぐなり、姫に駆け寄り、マントを振って炎を消した。二、三度叩いて、炎を鎮火させることに成功したものの、火勢はますます強くなり、もうもうと立ち込める煙が呼吸を困難にさせる。
「姫、こちらに!」
 アドリアンはエルスベト姫の手を掴むと、安全な場所を求めて走り出した。どれほどの数の部屋を抜けたことだろう。居城を脱出し、中庭に出たところで、アドリアンはようやく歩みを止めた。
 大広間の窓からは炎の舌が伸び、夜空を黒く焦がしていた。
「リンブルク公爵の騎士の方ですね」
 仮面をしていて良かったと心の底から思った。考えるより先に姫を助けようと身体が動いてしまったのだ。アドリアンは皇妹の前に跪き、うやうやしく頭を垂れた。
「貴方に感謝を」
 アドリアンはすぐに立ち上がると、皇妹に背を向けた。
「どうかお名前をお聞かせ願えませんか、後ほど正式な礼をさせて頂きたいのです」
 アドリアンは振り返らずに言った。
「名乗るほどの者では」
 短く、声色を変えて言った。しかしアドリアンの背後で皇妹が小さく息を飲む気配がした。





――気付いたか。
 いいや、気付かなかったろう。ただ、似ていると思っただけだ。
 俺は幽霊だ。この世には存在しない。
 中庭は、すぐに脱出してきた人々でごった返した。人気の少ない場所を選んで歩き出す。
 火達磨となった狂戦士たちの姿がアドリアンの脳裏に焼きついていた。
――炎は嫌だ、あの日のことを思い出させる。
 皇帝が実の兄であるラインハルトの殺害を命じ、翼棟に火を放ったあの日。皇帝がアドリアンを初めて抱いたのも、まさにその日だった。
 よくやったと褒め、まさに戦の後の狂戦士のように忘我状態にあったアドリアンを抱いた。
 夢のようだった。
 たった一度でも抱かれることが出来れば、死んでも良いと思っていた。それは恋焦がれて止まなかった主君だった。
 自分もまた稚なかったのだろう。度を越した野心を魅力と、病的な猜疑心を鋭さと、力こそが善だと信じて止まなかった……。
「涙の再会という訳にはいかなかったようだな、ヴォルフ」
「……!」
 あの男だった。
 全員が仮面を付けなくてはならぬ仮装舞踏会の中といえども、何という大胆さだろうか。
「驚いたか? 敵を欺くにはまず味方から。使い古された諺だがな」
「貴様なのか、狂戦士どもに火を放ったのは」
「お前からの手紙のお陰で顔合わせの状況は手に取るように判った。細工を弄するのは簡単だった」
「何のために?」
「知っているか、ヴォルフ。祝いを延期させるために必要なのは、喪だ」
 顔合わせの場所で起こった火事。信心深い人々の間では、どのような天災も神意とされる。不吉な火事で彩られた顔合わせ、難航することは安易に予想ができた。
 急ごしらえの担架に乗せられた人、人に負ぶさり運ばれていく人、火傷した部位を抑えて歩く人、さまざまな人々が二人の横をすり抜けていく。
 未だ城を焦がし続ける炎を薄笑いを浮かべながら笑う男は、アドリアンにある男を思い起こさせた。
「炎の仮装舞踏会はこれからが本祭だ」
「――貴様もやはりそうなのか。この火事で姫はあやうく死ぬところだった。家族を踏みつけにしてでも、復讐を遂げたいのか」
「血は争えぬ」
 アドリアンはもはや黙っていることができなかった。
「あの姫はずっと貴様の死を悼んでいたというのに……!」
 あの日、火を点けるために翼棟に戻ったアドリアンは、ラインハルト皇太子にまだ息があることに気が付いた。皇太子は虫の息だった。どうせ死ぬのだろう、その思いが最後の止めを刺すことを躊躇わせた。
 後にアドリアンが悔やむこととなる、中途半端さの萌芽がその頃からあったのかもしれない。
 既に事切れていた皇太子の近習と衣服を取替えると、塵落とし用の暗い穴に落とした。皇太子の代わりとなった近習の遺体は判別がつかないほど焼け爛れ、皇太子の死を怪しむ者は誰一人として存在しなかった。
 翌日、塵捨て場に皇太子の死体を確めにいったアドリアンを除いては――。
 そこに死体は存在せず、アドリアンは皇太子の脱出を知ったのだ。
 しかしその中途半端こそが、後のアドリアンを救うこととなったのは、何という運命の皮肉だろうか。
 かつて皇太子だった男は静かに言った。
「ヴォルフ、私たちは幽霊だ。幽霊にしたのは誰だ、鉄のレオンだ。私もお前もあの男が存在する限り、決して陽の当たる場所は歩けない。私は幽霊でなく生きた人間に戻りたいのだ」
 皇太子が抱く願望は人として当たり前のものだろう。
 正当なる皇太子でありながら、野心家の弟により命を狙われ、名乗り出れば再び命を狙われる立場となる。
 だからこそあまたの領邦に手駒を送り込み、正攻法により王冠を取り戻そうとしている。皇帝選挙侯の過半数を味方に付けることができれば、皇帝に返り咲けよう。
――果たして自分は生きた人間に戻りたいのか、皇帝への復讐を望んでいるのか。
 それはかつて自答し、けれど結論の出なかった問いだった。
 あの生き地獄の中、生き延びたいと思ったのは、なぜなのだろう。
――そう、会いたかったからだ。一目でも良い、その姿を見てから死にたかったのだ。
 俺の手は既に罪無き人々の血で汚れている。
 その上でなお生き延びようなど虫の良すぎる願いだろう。
 アドリアンは固い決意と共に口を開いた。
「婚約は破棄されるか、良くて延期となるだろう。公子は俺に興味を持っている。鉄のレオンが次なる一手を打ち、アキテインを傘下に収めるその前に、公子を我らの味方に引き入れよう」
「驚いたな、そう命じるつもりであった。まさかお前の方から、それを申し出るとは」
「もしも味方に付けられなければ殺す」
 この男には逆らえないと思い、ずっと流され続けてきた。自分の意思すら持たず。流され続けたのは、見つめ直したくなかったからだ。片目を奪われても尚、断ちがたい、女のようなこの未練を。
「一つだけ願いがある。もしも俺が首尾を果たし、貴様の望みが叶ったなら、それを叶えてもらえるだろうか」
 男は頷いた。
「鉄のレオンに会わせてくれ」
「会ってどうするつもりなのだ」
「俺に殺させてくれ」
「ついに復讐を遂げる気になったのか、ヴォルフ」 
 男は笑い出した。笑いはやがて長く尾を引く、甲高い哄笑となった。



 未練は決して断てないだろう、この命が続く限り。
 この男の野望、否、願いを阻止することができないのなら、あの男の病みきった魂を救うことができないのなら。
 俺が殺そう。
 だが、一人では逝かせない。皇帝の死には常に殉死がつきものだ。

――俺はついに死に場所を見つけた。

 アドリアンは片目を失って以来初めての、高揚した気分を味わっていた。





つづく
Novel