冬の狼 12





 その不穏な噂を最初に持ち込んだのは、他ならぬエヴァンゼリンだった。
 皇妹との顔合わせの旅を終え、ローゼンブルクに戻ったアドリアンの土産のコロン水を嬉々として受け取り、旅の疲れをねぎらうや、妙な疫病が流行っていなかったと口早に尋ねたのだ。
「ラインスター辺境伯領から来た行商人に聞いたの。あちらじゃ夏からこっち、ばたばたと人が死んでいるんですって。あまりに人が死ぬものだから棺桶の生産が追いつかなくて、葬式の算段も付かず途方に暮れてるって話よ」
 ラインスター辺境伯は皇帝選挙侯の一人だった。辺境伯のその名の通り、領邦は辺境――スラブと国境を接するドイツ北東部に位置していた。
「棺桶が追いつかない?」
「ね? 怖いでしょう。それに罹かると、高熱が出て、身体のあちこちに瘤が出来て、一週間もしないうちに死ぬんですって」
 高熱、瘤。それを聞いてアドリアンの脳裏に閃くものがあった。
「爺さんに聞いた事がある。爺さんが子供の頃に疫病が流行り、村の三分の二の人間が死んだと。身体に瘤が出来、黒い痣だらけになって死ぬらしい。それと同じ疫病かな」 
「さあ。でもそっちで流行ってなかったなら良かったわ。もしもあんたがその疫病を持ち込んで来たらどうしようかと思ってたの」
 そう言うと、エヴァンゼリンはすぐにいつもの調子を取り戻した。
「で、鉄のレオンの妹の顔は見られたの?」
 あれこれと尋ねてくるエヴァンゼリンの興味を十二分に満たしてやりながら、アドリアンはその疫病について考えていた。
 アドリアンの祖父はまるでつい昨日起きた出来事のように、その疫病の恐怖を熱く語ったものだった。疫病は爆発的に流行り、村の三分の二の人間が死に絶え、その年は村の主産物である葡萄を穫ることさえ出来なかったという。祖父は一族の全てを失い、奇跡的に一人生き残った。アドリアンが生まれ育った村よりももっと小さかった隣の村はついに廃村となった
 同じ病かどうか確めようという気になった。
 辺境伯領は確かに遠い。だがもしエヴァンゼリンが言っている疫病とアドリアンの祖父が体験したその疫病が同じなら――、距離などはまったく問題にならないはずなのだ。
 その疫病はまるで嵐のようだったとアドリアンの祖父は言っていた……。





「私はむしろ安堵しているのだ、アドリアン」
 その夜、アドリアンはリンブルク公爵邸に呼ばれた。護衛役から解放され、次は公子にどう接触しようかと思っていた矢先である。アドリアンに異存はなかった。
「婚約が伸びた。まさに死刑執行が延ばされたような気分だ。父上は口惜しがっておられたがな?」
 ラインハルト皇太子の思惑通り、炎で彩られた顔合わせは不吉の予兆とされ、公子の婚約は延期となった。元々婚約に乗り気でなかった公子は明らかに喜んでいた。
「閣下はお気に召されなかったのですか、姫を」
「美しい姫だ、それに意志も強いな。進んで皇帝の傀儡となるような女ではあるまい。正直もっと嫌な姫なら良かったと思っているほどだ」
「ではなぜ」
「前にも言ったな。私は私はブロスフェルトとリンブルクの公爵だ。欲しい物は何でも金貨で購える。けれど私は度を過ぎた欲望は決して抱かず、家族を頼みにこれまで生きてきた。その私もたった一つだけ叶えたい願いがあった」
 アドリアンは目を上げてその先を促した。
「私は自分が心の底から好きになった相手と結婚したいのだ。どうしてそれが叶わぬのだろう」
「閣下のような御身分の方がそれを望まれるのは難しいと存じます」
「王侯は黙って政略結婚を受け入れろと?」
「それは高貴な生まれの方々の義務でございましょう」
 公子は肘凭れのついた豪華な椅子から立ち上がると、窓辺に歩み寄った。明るい満月の夜で、窓辺からは街外れにあるローゼンブルク城を望むことができた。アドリアンに背を向けたまま、公子は言った。
「私の母はブロスフェルトの女公爵で、前国王の従妹だった。幼い頃から周りにかしずかれ、いずれ王妃になるだろうと言われて育った。しかし彼女が長じた時、夫となったのは王ではなく、王弟だった。母は絶望した」
 公子はゆっくりと振り返り、アドリアンを見た。
「けれど私は知っている。母は王妃になりたかったのではない、国王の妻になりたかったのだ。私は母の遺品の中から前国王に向けて書かれた手紙の束を見つけた。母は幼い頃から前国王を思い、大人になる日を指折り数えて待っていた。――この事は父上には言っていない。父上は私の母を並外れた権勢欲を持った女だったと思い込んでいる。そして王妃になりたかった亡き妻の願いを叶えようと思い、そのために動いている。けれど父上が国王になったとしても、母はきっと喜ばないだろう。なぜなら母は前国王の妻になりたかっただけなのだから」
 アドリアンは無言で公子の言葉に耳を傾けていた。
 もしそれが本当なら、何と哀しい話だろうか。恐らく生きている間は自分を顧みることのなかった妻のために、王冠を狙うリンブルク公爵が哀れに思えてならなかった。
「私はひょっとしたら母親似なのかもしれないな。結婚は真に愛する者としたい。愛する者と添い遂げられない人生など意味がない」
「おられるのですか、そのような方が」
「ずっと探し続けてきた。けれどまだ出会わない。私はこんな風に考えていた。ある日運命の乙女が私の前に現われ、私は雷に打たれるが如く恋に落ちるだろうと」
「恋愛歌人が紡ぐ恋物語のように、でございますか」
 公子は頷いた。
「だが、私は最近こうも考えるようになった。運命はあるいはひそやかに忍び寄ってくるものなのかもしれない」
 公子はゆっくりと歩いてくると、寝椅子に腰を掛けるアドリアンの後ろに立った。
「君の情熱的な恋人はどうしているのだ」
「閣下」
「最初は純粋な興味だった。貴殿にあのような濃厚な情事の痕を残す恋人とはどのような相手だろうと。日が経つにつれて別な感情が生まれてきた。もう、誰にもあのような痕を付けさせたくない」
「私にあの痕を付けたのは、私の恋人ではございません」
「恋人ではない? では何だ」
「閣下のような御身分の方にはお判りにならないかもしれませんが、男色は騎士のたしなみの一つ」
「でないと娼婦を随行させない戦場で気が狂う。よく聞く話だ。それでは貴殿は一夜の遊びの相手にもあのような痕を付けさせるのか?」
 公子は背後からアドリアンを抱きしめてきた。頤に手を掛けて振り向かせ、唇を重ねてくる。
「ならば私とも遊んでもらえぬか」
 身体を差し出したところで心を掴めるとも限らない。それほど単純な男ではないだろう。
 だが、虎の子のように自分の身体を出し惜しみする気もなかった。一度抱けば飽きるかもしれない。
 ……飽きないかもしれない。
 アドリアンは唇を開いて、その口付けに応えた。





「見せてくれ、貴殿の身体を」 
 一度湖で見せた身体だった。アドリアンは衣服の最後の一枚を脱ぐと、公子に向き直った。
「……美しいな。まるでアポロンだ」
 公子は天蓋付の大きな寝台の上でアドリアンを待っていた。燭台の灯りに照らされたアドリアンの裸身を見て、その蒼氷色の瞳がゆっくりと細められる。
 手振りで促され、アドリアンは寝台に上がった。公子は腕を伸ばし、アドリアンの脚に触れると、その脛に口付けた。
「良い身体だ。惚れ惚れする」
 脛から膝、腿、そして脚のつけ根の隅々に至るまで、公子の唇が触れていく。公子の舌は熱く、その愛撫は優しく繊細だった。
 胸の頂きを舌先で転がされるように舐められると、堪えきれず声が漏れてしまう。これまで乱暴な愛撫しか与えられていなかった身体には、公子の繊細にすぎる優しい愛撫はむしろ毒にも等しい効果をもたらした。
 公子の唇がアドリアンの唇に重なり、舌先で唇がこじ開けられた。性急に熱い舌が口内に挿し込まれ、強く吸われた。いつも冷静な印象を受ける公子が見せた思わぬ熱にアドリアンもまた呑まれた。舌を絡めて注がれた唾液を飲む。
 薄暗い室内に濡れた水音が響いた。
 今一度強く舌を吸ってから、公子はようやく唇を離した。
「……閣下」
「今はカールと」
 公子は心なしか熱を孕んだような声音で言うと、胴衣の釦を外した。シャツを肩から引き抜いて、白い裸身を露わにする。
「――どういう風の吹き回しなのだ」
 アドリアンの脚を開かせ、その黄金の髪を脚間に埋めながら、公子は言った。
「教えて欲しい。私と遊んでくれる気になったその理由は?」
 既に頭を擡げ始めていた屹立が温かな口内に含まれる。
 初めての経験だった。皆アドリアンにこの行為を強いたが、そのうちの誰一人として同じ行為をする者はいなかったのだ。
「…あ…っ……」
 公子の黄金の髪に手を差し入れて髪の毛を掴み、唇を引き離そうと試みるが、公子がそれを許さない。裏筋を舐め上げられ、先端を舌で刺激されると、たちまち屹立に血が通い、アドリアンは喉を引き攣らせて喘いだ。
 圧倒的な快楽の中、しかしアドリアンは冷静に公子を観察していた。
「身体が疼く、というのは答えになりませんか」
「君の情熱的な遊び相手たちは不在か」
 複数系を使われことに気付いたが、否定はしなかった。
 この鋭い男を相手に処女の如く振舞うのは無意味だろう。幾人もの男たちに貪らせたこの身体だ。ありのままの姿を見せよう。
 公子は下穿きを脱いで全裸となった。公子の脚間のそれは欲望のほどを示すように既に勃ち上がっていた。ふいに込み上げて来た情欲に喉が鳴る。
「正直に言おうか。初めてなのだ、男を抱くのは」
「貴方を幻滅させなければよいのですが……」
 公子は東方渡りの香油を掌に垂らして人肌に温めると、それを人差し指で一掬いし、アドリアンの蕾に触れた。慣らしもないまま強引に突き込まれることに慣れていたアドリアンは未知なるその感覚に怯えた。
 男は初めて、と恥じることなく告げた公子だったが、貴婦人相手の経験は豊富なのだろう。公子の指の動きは繊細で、かつ手馴れていた。襞の一本一本を伸ばすように触れていき、香油を塗り込んでいく。
「か……閣下」
「言っただろう、カールと」
 蕾に指が挿し込まれた。もっと熱くて太い物を欲しがって、襞がヒクヒクと物欲しげに震えているのが自分でも判った。指を足され、再び角度を変えて挿し込まれ、アドリアンは余裕を失う。
 揃えた二本の指で浅い部分を前後されると、堪らない快楽が立ち昇る。公子はアドリアンのたった一つしかない瞳に優しく口付けを落とすと、脚を開かせた。
 美しく涼やかな美貌には似つかわしくない、圧倒的な質量を持つそれが襞に触れ、アドリアンは声を上げた。
「あ……カール、カール……!」
 公子のそれはずぶずぶとアドリアンの肉を割り開いて侵入した。
「い……ッ…あ……ァ…ッ!」
 ここ半年もの間、あの男しか受け入れていなかった身体だった。大きさ、形、長さ、その微妙な差異こそがアドリアンを狂わせた。公子はアドリアンの腰を掴んで引き寄せ、緩やかな抽挿を始めた。抽挿の動きに合わせて身体が揺れる。
 公子は首筋に唇を近付けて吸い上げると、そこに自分の所有の証を刻んだ。肩、頂き、脇腹と、丹念に一つずつ痕を付けていき、その度にアドリアンは乱れた。腰を揺らし、先端から蜜を零した。
「そう、運命はこうしてひそやかに忍び寄るものなのかもしれない。――美しいな、貴殿は」
 頂きを唇に含みながら話す。その動きにすら感じてしまい、アドリアンは身体を仰け反らせて喘いだ。
「一体幾人の男にこの姿を見せた?」
 快楽の中で、自嘲らしく思った。……数え切れぬほど。
 かつては皇帝その人に捧げたその身体を性欲処理の道具として何十人、何百人もの男が貪った。
 上半身を屈め、公子はアドリアンの唇に己のそれを重ねると、舌を吸った。アドリアンもまたそれに応えた。最奥を貫いている公子のそれが、びく、びくと心臓の鼓動に合わせて波打っている。
 アドリアンは公子の白く、すべらかなその背中に手を回し、その身を委ねた。
 やがて我慢出来なくなったのか、緩やかな抽挿はやがて激しい律動となった。金糸の髪を揺らし、荒い息遣いの下、公子は言った。
「アドリアン、明日も――」
 ぐっと、奥深い場所に屹立が突き刺さり、アドリアンは仰け反り声を上げた。公子の腰に脚を絡みつかせ、アドリアンはひたすら己の快楽を追った。
「っ……」 
 アドリアンの中の公子がどくどくと脈打ち、やがて火傷しそうなほど熱い精液が最奥に注がれた。その刺激にアドリアンもまた達した。
 公子を強く締め付けながらアドリアンは射精した。
 絶頂の余韻にびくびくと身体を震わせて息を乱すアドリアンを胸にかき抱きながら、公子は言った。
「……明日もここに」





 アドリアンは情事の後の虚脱の中にいた。
 天蓋は高く、寝具は豪奢で、アドリアンは一瞬自分がどこにいるか判らなくなった。
――シュヴァーネンフリューゲル(白鳥の翼城)? いや違う。
 ふと気が付くと、公子の手がアドリアンの眼帯に触れていた。
「さぞや痛かったであろう」
「私は……騎士でございます、閣」
 閣下との呼びかけが中途半端に途切れた。
 公子が頭の後ろに手を回し、眼帯を取り去ったのだ。狼狽するアドリアンをよそに、公子は蒼氷色の瞳を痛ましそうに細め、そのむごたらしい傷痕を眺めていた、長いこと。
 やがて公子はその傷痕に口付けた。いたわるように優しく――。
 アドリアンは言葉を失った。





つづく
Novel