冬の狼 15





 ついにアキテインを襲ったその疫病は、下町から瞬く間に広がった。王はカール・ブロスフェルト・フォン・リンブルクを枢密院に召集し、疫病の対策を一任した。
「陛下をお救いしたその功労が認められたらしい。贅肉でだぶついた他の貴族たちとは違い、私ならまだ若く、よく動くだろうとの判断からかもしれない。貴殿を借り受けることについても了承を頂いた」
 中庭で行き会った公子は、有無を言わせぬ強い語調で言った。
「これは陛下の命令だ、ヴォルフ」
「疫病のことは私も気になっておりました。私でお役に立てることがあれば」
 二人は直ちに王城から馬を駆り、疫病が蔓延している下町へ向かった。
「一昨日は二十人死に、昨日は三十人死んだ。今日はどうなる?」
「この疫病が私の祖父が経験したものと同じものなら、まず鼠を駆除なさるべきです。鼠が瘴気を運ぶのだと私の祖父は申しておりました」
「鼠? では、ペストか」
「いいえ、似て非なるものです。私の祖父はこの疫病を、La bossu と言っておりました。一度この疫病に掛かると誰一人として生き残れないと」
 公子は王侯らしくフランス語に堪能だった。
「ラ・ボス、瘤という意味だな」
 下町は既に封鎖されていた。
 入らないだろうとアドリアンは思っていたが、公子は躊躇する事なく、死刑宣告の如く打ち付けられた板を従僕に剥がさせると、封鎖区域に入った。
「危険でございます、閣下」
「実情を知らずして何の対策が取れる」
 封鎖区域には全くと言っていいほど人の気配がなかった。
 人気の絶えた小路には見えざる瘴気が漂っているような気さえした。筵を被せた荷馬車が道を行く。筵からははみ出した白い死人の腕を見て、アドリアンは堪らず視線を逸らした。
 公子とアドリアンは手巾で口を覆い、路地を歩いた。か細い煙が煙突から上がる木組みの家を見付けると、二人はその家の中に入った。
 人の気配に気付き、薄汚れたエプロンを身に付けたおかみが部屋の奥から出て来た。公子の身なりを見ると、ハッとして深々と身を屈めた。
「顔を上げよ、病人はどこにいる」
 おかみは二人をすぐに病室へと招いた。
 鎧戸が閉められた薄暗い部屋の片隅に箱寝台が置かれ、そこに五歳ほどの男の子供が寝かされていた。空気はかび臭く、病人が発する悪臭が立ち込めていた。半裸で寝かされている子供の脇の下には卵ほどの大きな瘤があり、腕には青黒い斑点が広がっていた。
 アドリアンは確信した、これこそがラ・ボスなのだと。
 公子はおかみに向き直ると。
「すぐに医者を呼ぶ」
 公子とアドリアンは連れ立って家を出た。
「私の祖父が子供の頃にこの疫病が流行ったそうです」
 鐙を踏んで馬上の人となると、アドリアンは公子に告げた。
「一族郎党すべてが死に絶え、一人残った祖父の元に旅の医者が現れたのです」
 それは改宗ユダヤのフランス人で、モンペリエ大学の医学部を卒業した医師だった。その医師はまだ幼かった祖父にこう告げた。
「家を北に向けよ。油布で窓を塞げ。乾燥した香木を焚き、鼠を駆逐せよ、と」
「それは真の話か」
「わかりません。ただ一つ言える事は――」 
 ヴレマン(本当に) ヴレマン(本当に) と繰り返しながらアドリアンの祖父は語ったものだった。
それを語る時だけは、大家族の家長である頼りがいのある祖父は恐怖に顔を歪めたものだった。
 セ・テ・ヴレマン・エフレイヤン。(それは本当に恐ろしかった)と。
「私の祖父はそれを実行して生き残りました」
 公子は即決した。
「では、全てやろう。生き残るそのために」





 公子はまずアキテイン全域に鼠の撲滅命令を下し、未だ疫病の流行していない国々から猫を買い取るよう触れを下した。疫病の死者が出ると、病人の寝ていた寝台、寝具、家具、その全てを焼き払うこととした。
「次に墓の確保を致しましょう。想像したくない未来ですが、死者はそれこそ鼠算式に増えるはずです」
 アドリアンの提案を聞いて、公子はローゼンブルク市内の墓地に大きな溝を掘らせることにした。
 秋の日は短い。それだけの指示をしたところで既に日は暮れた。けれど日が暮れても尚、公子は積極的に動いていた。
 城下にある教会付属の修道院が夜更けを告げる讃歌の鐘を鳴らしていた。それを潮にアドリアンは言った。
「お休みになられてはいかがですか、閣下」
「国の一大事に呑気に寝る訳にはいかぬだろう」
「明日がございます。それに明後日も」
 何十枚、何百枚もの書類を書いた公子の手は無残にも腫れ上がっていた。アドリアンは重ねて言った。
「対策を任された閣下が倒れてしまっては、国ごと共倒れになってしまいましょう」
 公子はようやく書類を書く手を休めた。
「そうだな、貴殿の言う通りかもしれない」
 帰ろうと椅子から立ち上がりかけたアドリアンの手を公子は取った。そのまま手を引いて、アドリアンを引き寄せると。
「……気が高ぶって眠れそうにないのだ」
 公子は息を吹きかけて、机の上の燭台の炎を消した。途端、部屋は薄暗闇の中に落ち、暖炉の燠だけが部屋を仄かに照らす。
「良いか、ヴォルフ」 
 誘いにアドリアンは無言で頷いた。





 薄暗闇が羞恥心を巧みに覆い隠したのか、その夜、アドリアンは乱れた。
 公子の黄金の髪をかき抱き、深く貫かれながら、射精なしの絶頂を幾度も迎えた。
 既に深夜、耳目を慮った公子はアドリアンの口を布で塞いだ。
「すまない、ヴォルフ」
 アドリアンは生まれて初めて自ら激しく同性の身体を求めていた。公子の腰に脚を絡ませ、進んで腰を押し付けた。
「どうしたのだ、ヴォルフ。……私は嬉しいが」
 公子は二人きりの時はいつもアドリアンの本名を使った。

――まるで何かを確めるかのように。

 アドリアンは公子の上に馬乗りになると、激しい腰使いで公子を追い立てていった。
 後、何度こうして抱き合えることだろう。或いは今夜で最後かもしれない。そう思うと、貪るように身体を求めることが止められなかった。
「……!」
 アドリアンはこの一日の間に、再び公子の中に王たる資質を確かに見出していた。
 彼は高潔で無欲だ。だからこそ皆は彼を信頼し、王位に就けたがるのだ。
 大きく腰を回され、アドリアンは喉を反らせて喘いだ。決して結実することのない公子の牡の種がアドリアンの奥深い場所に注ぎ込まれる。

 悦びに震えてそれを受け入れながら、アドリアンは自分が為すべきことを既に決めていた。





つづく
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