冬の狼 16





「許せぬ」
 カール・ブロスフェルト・フォン・リンブルクは激昴していた。
「それがキリスト教徒のすることか」
 公子の憤りはもっともだった。アドリアンは頷き、同意の意を示した。
 疫病の蔓延を良いことに、ローゼンブルグの街に盗賊団が現れたのである。
 疫病により無人となった家屋に押し入り、或いは大胆にも瀕死の病人を脅し、金品や宝石、家具の数々を略奪して回る。まさに鬼畜の所業であった。
 疫病への不安、盗賊団への恐れが相乗効果となり、貴族も市民も不安に怯えていた。疫病そのものではなく、公子はいつ爆発するとも知れぬ人々の狂気を抑えるのに必死になっていた。
「ユダヤ人が、の流言にも飽いた。ユダヤ人小路は鎖を張って封鎖しろ。陛下の許可を頂き、王城の警備兵を回すのだ。ユダヤ人小路への焼き討ちは許さぬ。行った者は法の下に裁く」
 悪い予想ほどよく当たるものである。
 カールが作らせた墓地の溝はすぐに死体で埋まり、さらに墓地内に溝を三つ増設した。それでも尚足らず、城壁外に大きな穴を掘り、そこに死体を埋めることとした。
「鞭打ち巡礼者は街の中に入れるな、感化されて連れて行かれるぞ。葬儀も泣き女も禁止だ。――追いつかぬ」
 公子の言葉を聞き、それらの触れを回すため、伝令は直ちに部屋を飛び出して行った。部屋にアドリアンと二人きりになるや、公子は口振りも荒く。
「なぜだ、秋はおろかもう木枯らしの吹く季節だ。なのに何故収まらぬ」
「判りません。しかし疫病は生き物のようなもの。流行る年によってその姿を変えると聞きます」
 公子は連日、国王から与えられた王城の一室に詰めていた。つづれ織りの一枚も下ろされていない殺風景な小部屋である。書き物机の上には決断待ちの書類や報告書などがうず高く積まれていた。
「鞭打って疫病が去るというのなら、この身体を幾らでも鞭打とうではないか。だが、これは神の怒りなどでは断じてない!」
 疫病は神の怒りだと、神の許しを乞うために自らの身体を鞭打ちながら諸国を回る巡礼者の一団があった。疫病を恐れる人々は家を捨て国を捨て、着の身着のまま巡礼者と共に旅立つのだ。彼らを街に入れるな、と公子が冷たく断言したのはそのためだった。
「市民から成り立つ自警団はもはや機能しておりません。街を騒がす盗賊団については私にお任せ願えますでしょうか。必ずや捕えてみせましょう」
「危険だ」
 アドリアンはゆっくりと首を振った。
「王侯には王侯の、騎士には騎士に見合った仕事がございます」
 公子は不承不承頷いた。やがて椅子から立ち上がり、アドリアンの側に歩み寄るなり、その肩に手を置いた。
「それでは、今夜公邸に来ると良い。紹介したい者たちがいる」





「紹介するまでもないかもしれない。覚えているだろうか?」
 その夜、リンブルク公邸を訪れたアドリアンは思いもかけぬ人々を紹介された。それは以前アドリアンとエヴァンゼリンを襲った、公子の子飼いの騎士たちだった。
 あれから何ヶ月が経ったことだろう。既に懐かしささえ感じる人々であった。
「あの襲撃は侍女殿の口を封じるために行ったもので、それを命じたのもむろん私だ。かつて遺恨は水に流し、互いに協力しあって欲しい」 
 アドリアンは騎士たちの中からかつて自分が右肘を貫いた騎士を目敏く見付けだすと、怪我をさせたことを詫びた。相手もその謝罪を騎士らしく受け入れ、和解は成った。
 そして公子はアドリアンを加えた子飼いの騎士たちに盗賊団の捕縛を命じたのだった。





 昼に降った雨のせいで道はぬかるんでいた。
 市民が窓から投げ捨てた汚物や屑が降り積もって作られた汚泥により、長靴は脛まで泥に浸かった。あまりの不衛生さに身震いしたアドリアンの目の前を小さな黒い影が横切った。
――鼠か。
 疫病を運ぶという鼠。
 だが、なぜ鼠なのだろう。
 騎士ゆえに待つこと、耐えることには慣れていた。けれど縫製の甘い長靴の底から染み込んだ水気のせいで、身体は芯まで凍えた。口許に手を持っていき、かじかんだ手に息を吹きかけていると、騎士の一人が小声で話しかけてきた。
「冷えるな」
「ああ」
 騎士は懐から布に包まれた何かを取り出し、アドリアンに投げて寄越した。
 まだ温かい。温めた石に布を巻いたものであった。
「凍えると剣が鈍る」
 アドリアンは礼を言ってそれを受け取った。
「しかし疫病患者の家に空き巣に入るなど正気の沙汰とは思えぬな。命が幾らあっても足りぬ」
 そして騎士は恐ろしげに路上を見渡した。まるでそこに見えざる瘴気が漂っているとでもいうように。
「仲間の幾人かは既に犠牲になっているかもしれない」
 一度この疫病に掛かると誰一人として生き残れない、アドリアンの祖父の言葉は概ね真実であった。公子が取った統計では患者の九割が死んでいた。そう、この疫病に罹かって生還できる者は一割に満たないのだ。
 罹かれば、最後。
 身内さえも罹かれば諦め、疫病患者に寄り付かなくなる。感染の危険を冒してまで盗みに入るなど余程生活に困窮している者たちなのだろう。
「貴様は怖くないのか」
 問いかけにアドリアンは頷いた。
「怖い。だが、誰かがやらねばなるまい」
 王侯という身分に奢ることなく、睡眠時間さえも削り、市民のために動いている公子。それを目の当たりにしているアドリアンには遅れを取るまいとの気持ちがあった。
 と、頭上で微かな物音がした。
 今朝方亡くなった患者が運び出されたばかりの家だった。感染を恐れた家族は親戚の家に避難しており、誰もいないはずだった。
 騎士たちの間に緊張がみなぎる。
 アドリアンと大柄な騎士が先頭に立った。
 二階建てのその家に足音を潜めて入り込む。物音は家族の空間である二階からしていた。カンテラと思しき灯りが階下に漏れている。先頭に立ったアドリアンたちは上階へ掛けられた梯子の後ろに隠れた。
 アドリアンはある違和感を覚えて、鼻をうごめかした。家の中に何故か香料の香りが漂っていたのだ。
 とても死人が出た家とは思えない清冽な香りが――。
 やがて慌ただしく人が動く気配がしたかと思うと、男が一人、カンテラを掲げて梯子段を降りてきた。
 ぎりぎりまで引きつけておいてから、アドリアンはやおら梯子の陰から飛び出した。
 暗闇に長い間潜んでいたアドリアンは夜目が利いた。男の顔を切りつけるや、相手はカンテラを取り取り落とし、梯子から転げ落ちた。
 床に倒れた男に馬乗りとなり、喉元に剣を突きつけるとすぐに大人しくなった。アドリアンは急ぎ男に縄を掛けた。
 男と入れ替わるようにして階上に上がった騎士と盗賊団の間では既に乱闘が起こっていた。
 後を追って二階に上がろうとしたアドリアンだったが、鎧戸を開ける音に気付くと、すぐに踵を返して外に出た。
「窓から逃げるぞ! 路地を固めろ!」
 アドリアンは床に転がったままだったランタンを取り上げると、路地に出た。男たちは三人だった。訓練を受けた者ではないだろう。得物は短剣か棍棒で、その戦い方はまさに喧嘩そのものだった。
 公子子飼いの騎士たちの活躍によりすぐに二人が倒された。
 最後の一人は死に物狂いで抗い、騎士たちを振り切ると、アドリアンの居る方角に向かって駆けてきた。
 アドリアンは剣の柄に手を掛けた。国王より司法権執行の許可を得てはいたが、男を殺す気はさらさらなかった。弱者を食い物にするならず者たちだ。生かして捕え、市民の見せしめとしなくてはなるまい。
 男はその手に短剣を握っていた。奇声と共に突き出されたそれをカンテラで遮り、アドリアンは剣の柄で男のみぞおちを突いた。よろめいたところに痛烈な膝蹴りを叩き込む。
 男は海老のように身を折ってその場に倒れた。ぬかるみに身体の半分を埋め、びくびくと身体を痙攣させている。
 後ろ手に縄を掛けた男たちを連れ、騎士たちが三々五々と集まってくる。どうやら盗賊団を一網打尽にすることに成功したらしい。
 上首尾に口許をほころばせたアドリアンの視界に再度黒い影が横切った。
 また鼠だ、アドリアンはゆっくりと首を振った。今日は二度も鼠を見た。奴らは余程汚いところが好きらしい。公子が大量に輸入した猫もどうやら物の役には立っていないらしかった。
 歩き出すと足元の汚泥が粘つく音を立てた。
 そう、こんな風に汚いところを鼠は好む。

――家を北に向けよ。油布で窓を塞げ。乾燥した香木を焚き、鼠を駆逐せよ。

 祖父から伝え聞いたその言葉が突然耳に蘇り、アドリアンは弾かれたように顔を上げた。
 なぜ鼠なのか、今まで考えたこともなかった。
 物事にはすべからく理由がある。
 油布で窓を塞ぐのは何故だ。
 香木を焚くのはどうしてだろう。
 鼠は汚い。何故だ? 汚い場所を好むからだ。ならば幾ら鼠を駆逐しても問題の根本的な解決にはならないだろう。鼠の好む環境を無くさなくては。
 油布で窓を塞ぐのは感染を防ぐため。つまり疫病は空気を伝って感染する。そして――。
 あの清冽な香りはいったい何だった……?
 アドリアンはたった今自分が出て来たばかりの家を振り返った。





つづく
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