冬の狼 17 |
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「馬鹿な!」 カールとアドリアンは共に馬を駆り、罪人たちが捕らえられている牢へ向かっていた。 「あれほど荒稼ぎをしておきながら、誰一人として感染していないだと?」 「偶然ではない他の理由があるように思えます」 「死刑囚のあぶらや泥棒の手のたぐいではあるまいな」 公子が口にしたそれらはどれも迷信伝承の類だった。死刑囚のあぶらは万能の薬とされ、また死刑となった泥棒の手を持っていると病気に罹からないと言われていた。 「恩赦と引き換えに聞き出してはいかがでしょうか。拷問で口を割らせるという方法もございますが、今は一刻を争う事態です」 「止むを得まい」 公子は言って、馬に拍車を掛けた。 「不衛生さこそが我々の真の敵なのです。往来に家畜を自由に歩き回らせるのは禁止し、塵や動物の死骸は手桶に入れて市門の外に運び出させましょう」 市街の中心部に入ると、狭い小路が連なっていた。公子は馬を走らせるのを止め、並足でゆっくりと小路を進んだ。アドリアンは足元の汚泥に目をやると。 「汚泥はすべてを掻きだし、道の整備を致しましょう。遠回りなようでいて、一番の解決策になるかと存じます」 「判った。すぐに手配しよう」 罪人たちが入れられている獄舎は、市参事会の管理下にあった。表に馬を繋ぎ、中に入ると、そこには市参事会員であるコージモ親方が詰めていた。 「これは、公子閣下」 コージモ親方は公子への挨拶を済ませると、すぐに二人に状況を知らせた。 昨日より刑吏が水責め拷問を行っているが、どうやら盗賊仲間は捕縛したその四人で間違いはないらしい。ローゼンブルクで疫病が流行り始めた十月頃から略奪行為を始めたと供述しているとのことだった。 公子とアドリアンはすぐに牢に向かった。 牢は黴臭く、醜悪な匂いが立ち込めていた。格子の向こうでは一人の男が横たわっており、それを残る男たちが囲んでいた。床に横たわる男は悪名高い水責め拷問で痛めつけられたのだろう。唇は土気色となり、小刻みに身体を震わせていた。 「――窃盗の罪は重い。ましてや疫病患者の家を襲うなど言語道断。どの刑が良い、焚刑、生き埋め、四裂き。目を抉り出し鼻を削ぎ落としてから、車裂きの刑に処すか」 公子の言葉に盗賊たちは震え上がり、床に頭を擦り付けて慈悲を乞いた。 鬼畜の所業を行っていた盗賊たちは、蓋を開けてみれば遍歴の職人だった。聖堂建築に携わる石工職人、それらが聖堂建築の中止により、生活に困窮して盗賊行為に手を染めたのだ。 「だが、刑の執行の前に一つ聞いておきたいことがある。そなたらはなぜ疫病に罹らなかったのだ」 盗賊――職人たちは互いに顔を見合わせたが、その仲の誰一人として口を開く者はいなかった。 「答えによってはそなたらの刑を軽減しよう」 職人たちは明らかに狼狽の色を見せた。やがて職人のうちで一番年嵩の男が思いきった様子で口を開いた。 「我らツンフトに伝わる秘薬でございます、閣下」 「秘薬だと」 石工職人たちは一つの聖堂を建てると、次の聖堂建築に携わるために諸国を遍歴することが多い。聖堂建築に関わる職人は口頭によりその建築技術を学ぶため、常に秘密結社めいた雰囲気が付き纏っていた。 職人はゆっくりと話し始めた。 獄舎を出るや、アドリアンは身を折って吐いた。続いてやって来た公子がアドリアンに駆け寄って来たが、手を挙げてそれを押し留めた。 「申し訳ございません」 アドリアンは広場まで走って行くと、魚の銅像のある噴水で口を漱ぎ、顔を洗った。 牢が、あの暗さが、あの醜悪な匂いが、決して開けたくなかったアドリアンの記憶の蓋をこじ開けた。アドリアンは今でもまだ、あの牢の夢を見て飛び起きることがあったのだ。 ――あの地獄から逃れられるならどんな犠牲を払っても構わないと思っていた。 なのに、人とは何と自分勝手な生き物だろう。 快適な環境に人はすぐ慣れ、さらにもっと上をと求めるようになるのだ。 ふと気付くと、噴水のそばに公子が立っていた。アドリアンは布で口許を拭うと。 「……あの家の中に入った時、清冽な香りが致しました。その秘薬を用いたのでしょう。彼らの言葉は真実だと思います」 「貴殿も言っていたな、乾燥したと香木を焚けと」 ――薬草と精油を使った酢でございます。 命が助かるかもしれないという誘惑に勝てず、職人はツンフトに伝わる秘薬の詳細を語ったのだった。 ――ローズマリーにアンゼリカ、セージ、ミント、ラベンダー、これらを入れた調合酢で家を殺菌するのです。 それを用いたがために、彼らは誰一人としてこの疫病に罹からなかったのだと言う。 「或いはこれで我らは疫病に打ち勝てるかもしれません」 アドリアンはそう言うと立ち上がった。 これ以上無様な姿を晒す訳には行かぬ。 布を懐に仕舞い、噴水に背を向けたアドリアンに公子の声が掛かった。 「思い出させて済まなかった」 「何が、でございますか」 ふいに腕を掴まれ、アドリアンは人気のない小路に連れ込まれた。 アドリアンは驚いて公子を見やった。いつも冷静で表情を崩さない公子。それだけに偶に見せるその熱に、アドリアンはいつも煽られるのだ。 「ヴォルフ、もしも私たちがこの厄災から無事逃れられたなら――」 公子はアドリアンを抱き寄せ、その髪に顔を埋めると、囁くように言った。 「話してくれるな、すべてを」 「閣下」 アドリアンは公子の形の良い唇に己のそれを重ねた。 舌を挿し込み、深い口付けをねだる。公子はすぐに舌を絡めてそれに応えてきた。 まるで母親の乳をねだる赤子のように、アドリアンは公子の舌を貪った。欲情を煽る粘着質な音を立て、互いの唾液を注いでは飲み下した。 「っ…閣下……」 「どうした、ヴォルフ」 一旦唇を離し、公子は角度を変えて再び口付けてきた。 一つきりの瞳に涙が滲む。 それを見られたくなくて、アドリアンは瞳を閉ざした。背中に手を回し、公子を強く抱き締める。 お笑い種だ、アドリアンは自嘲混じりに思った。 堕とすつもりが、堕とされた。いや、或いはもっとずっと前から惹かれていたのかもしれない。それこそあの狩猟大会の時から。 愛おしかった。 金糸の髪も蒼氷色の瞳も、胸に抱く崇高な志も、その優しさもすべて。 この男が主君であったならば、自分はもっと違った人生を歩めたかもしれない。 エヴァンゼリン、本当にあの娘の親族ならば良かった。 捨ててしまいたい過去も、しがらみもない、一介の騎士なら良かった。この男を主君とし、この身を捧げて、ずっとずっとこの国で――。 「閣下、どうか何も仰らず。どうかこのままで」 しかしそれが叶わぬ夢であることを、アドリアンはこの世の誰よりもよく知っていた……。 |
つづく |
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