冬の狼 18 |
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街の整備は一筋縄ではいかなかった。 疫病が生みだした大量の死者により、極端に労働力が低下していたからである。しかし公子を始め、王までがその先頭に立って動き、ついに街の整備は成った。 秘薬の処方箋は王侯に独占されることはなく、市民にまで通知され、人々は争ってそれを作成すると、家に店先にそれを振り撒いた。 物語のように劇的な効果が生まれた訳ではない。けれど昨日は三十人、今日は四十人と爆発的に増え続けていた死者は昨日の数を越えて増えることはなくなった。 ――生き残れるかもしれない。 秘薬の効果だけではなく、その希望こそが人々を強くしたのだ。 「アドリアーン!」 エヴァンゼリンは遠くからアドリアンの姿を認めると、息を切らせて走ってきた。突然抱きつかれて面食らう。 疫病患者と接触する仕事をしているため、近付かないよう言い渡していた。こうして触れ合うのは久し振りのことだった。 「元気だった? 大変なお仕事だと聞いてたわ。でももう峠は越したんでしょう」 二人は壁をくり抜かれて造られた壁龕の中に入り、腰を据えて話すことにした。 「公子さまの功績を聞いて、王さまが皆の前で褒められたそうよ。筆頭侍従官は口惜しがられたそう。でも仕方がないわね。あの方は疫病を恐れて、お屋敷から一歩も外に出れなかったそうだから」 「あの方の勇気には俺も恐れ入ったよ。褒められて当然だろう。王妃さまはお元気なのか?」 「最近お加減が悪くて伏せってらっしゃるの。あ、でも、疫病でないことは確かよ。少し胃の調子がお悪いようで、陛下は毎日見舞いに訪れるのよ」 「仲が良くて何よりだ」 「そうね、天上人なのにまるで十姉妹みたいに仲がおよろしいのよ。私もそんな相手を早く見つけたいわ」 エヴァンゼリンは年頃の娘らしく、夢見るような口調で言った。 「お前は良い子だ。もしも俺が誰かと結婚しなければならなくなったら、間違いなくお前を選ぶだろう」 「どうしたの? 急に」 「王妃付きの侍女に言い寄り、便宜を図ってもらおうと考える輩は多い。その大きな目を見開いて相手をしっかりと見て、いい男を選ぶんだな」 「大丈夫よ。もしも素敵な殿方が現われたら、あんたにその殿方を評価してもらうから。近衛の副隊長が親族なのは頼もしいわ。皆、後の報復を恐れるでしょうから」 「ああ。……そうだな」 アドリアンは平静を装って言った。 そんな日は決して来ないだろう。それを思っての発言だった。 アドリアンは街に戻ると、金細工師の店を訪れた。 疫病の影響により街の経済は悪化しており、暇を持て余していた親方はじっくりと時間を掛けてアドリアンの相手をした。 アドリアンは金の指輪を二つ買った。一つはエヴァンゼリン。もう一つは彼女の未来の夫のためにだった。 国王直属の騎士団の副隊長と言えども、騎士の給金などたかが知れている。しかしアドリアンは騎馬試合の常勝者であった。騎馬試合で得た褒賞と二年半の間にこつこつと貯めた給金を投げ出して、その指輪を買ったのだ。 仕立て屋の娘に衣装など必要ない。二年半もの間受け入れ、愛してくれた血の繋がりのない親族――コージモ親方とエヴァンゼリンへのせめてもの心づくしだった。 アドリアンは下宿先に戻ると、指輪を小箱に入れ、部屋の整理に取り掛かった。 独身男性の一人住まいである。元々荷物は少ない。そしてあからさまに様々な物を持ち出すことは出来なかった。 剣も服も置いていくつもりだった。 故郷からの手紙の束。故郷を出る時に祖父がくれた幸運のお守りである兎の脚。取るに足りない、けれど何にも代えがたいそれらを行李に入れて蓋を閉めた。 一つだけ、持って行くかどうか悩んでいた物があった。最後まで決めかねて、アドリアンはそれを行李の蓋の上に置いた。 それは皇帝その人から賜ったロザリオであった――。 「遠乗りに行かれませんか、貴方のヴァイスが走りたがっているようです」 よく晴れた冬の日だった。空は高く、青く澄みきっていた、まるで公子の瞳の色のように。 二人が向かったのは、以前公子がアドリアンを待ち伏せていた湖であった。湖の側に馬を繋ぐと、湖から突き出すようにして生えた潅木に腰を下ろした。 湖は夏とは違う穏やかな冬の日差しを受けてさざめいていた。漁師が夏の間に使ったであろう小船が一艘、艀に繋がれて揺れている。 「不思議だ。疫病が蔓延している時には自然を楽しもうという気が起きなかった。いや、この景色を見てもきっと美しいとは思えなかったことだろう。今は――美しく見える」 「貴方が守った国でございます」 「果たして守ったと断じれるだろうか。最善を尽くしたが、力及ばない部分もあった。とりわけ地方の被害は甚大だ。来年の収穫時期が心配だ。農奴があまりにも少ない」 「折半小作制という制度はご存知でございましょうか」 「いや初耳だ」 「農奴に土地を提供し、そこから上がった収穫を地主と折半するのです。農奴はどんなに骨折りをしたとしても、その収穫を地主が情容赦なく搾り取ります。農奴が自由を求めて逃げるのはそのためです。地主は嫌がりましょう、しかし」 「旨みを持たせれば、農奴は逃げぬか」 「貴方なら大丈夫。お出来になります」 「腕自慢の騎士だとばかり思っていたが、貴殿は頭も良いな。貴殿に褒められると嬉しく、貴殿が側に居ると何でも出来そうな気になる。鉄のレオンも――」 公子はそこで言葉を切ると、反応を伺うようにアドリアンを見た。 アドリアンは内心の動揺を悟られまいと湖面に視線を落としたままでいた。 「そうであったのだろうか」 「あの方を増長させた要因の一つは私にもあったのかもしれません」 アドリアンは湖畔の石を一つ取ると、それを湖に向かって投げた。 石は湖面を切って飛んだ。 「あの方は実像よりも自分を偉大に見せることに長けていました。古来、英雄に稀にいるようです。恐ろしいほど人を操るのに長ける者。しかし何故かその渦中にいると、人は自分が操られている、利用されていることに気付かない」 あの男は金髪のカリスマだった。 田舎騎士だった自分は、その男に選ばれたこと有頂天になり、周りが見えなくなってしまった。いや、周りが見えなくなっていたのは、何も自分だけではなかっただろう。皇位を狙う企みを言葉巧みに正当化し、多くの人々を動かした。 そして手に入れたそれらを互いに争わせた。皇帝と関係を持っていた騎士は、恐らく自分だけではなかった筈だった。金髪のカリスマは自分に向けられる愛さえも利用する男だった。 「稚なかったのです、私は。大事に握り締めていた黄金の像、それが金箔で覆われた張子であることにも気付かなかった。稚なかった、その一言ですべてのことが許されるとは思いませんが――」 また一つ石を取った。 渾身の力でそれを投げる。 石は今度は三度、湖面を切って飛んだ。 「あの方が平気で人を裏切る局面を誰よりも近くで見ていたのにも関わらず、思っていました。自分は違う、自分だけは特別なのだと。恐らくあの方が足蹴にしてきた者達は裏切られるその瞬間まで、そう思っていたことでしょう。自分が裏切られるその瞬間まで」 アドリアンは片方の手で自分の腕を抱き、もう片方の手を懐に入れた。 ふいに寒くなったとでもいうように。 「私は黄金像か、それとも金箔の張子の像か」 「狩りの時は判りませんでした。けれど今は判ります。今の私は隻眼ですが、両眼が揃っていた頃よりも世の中が見えています。貴方は混じり気のない黄金」 公子はアドリアンを抱き寄せた。頤に指を掛け、僅かに上向かせる。 唇が重なった。 その行為はいつもアドリアンに堪らない幸福感をもたらす。投獄されてから、否、エルザス方伯の元を発ち聖騎士となって以来、一度も得たことのなかった平穏が、いつもこの瞬間には得られた。 アドリアンは懐に入れた手をゆっくりと引いた。 「それで私を殺す気か、ヴォルフ」 アドリアンは凍りついたようになってその手を止めた。アドリアンの手には細い縄が握られていた。 「一筋縄で行くとは思っておりませんでしたが、――貴方は本当に鋭い」 「すべて嘘か」 「いいえ」 アドリアンは公子を見た。 「貴方は黄金だ。黄金に世俗の砂を混ぜてはいけないのです」 「だから殺すと?」 アドリアンは公子が動くよりも先に動いた。縄を公子の首に巻きつけるなり、公子をその場に押し倒し、馬乗りとなった。 「お許し下さい。いずれ私も後を追いましょう」 「――ないのか。我々二人が二人とも生き残れる道は」 「貴方が世俗の砂にまみれ、金箔の張子の像と成り果てる様を見たくはないのです」 「私はたとえ世俗の砂にまみれても、貴殿と生きることを選びたい」 アドリアンは隻眼を大きく見開いた。 ぽつり、公子の白い頬にアドリアンの涙が落ちる。 「貴殿は私に一度も言ってくれたことがなかったな。その涙はその言葉の代わりと思っても良いのか」 アドリアンは何も答えることが出来なかった。アドリアンの頬を伝う涙が、公子の顔を熱く濡らす。 「そして私もまた言ったことがなかったな。――愛している、私の狼」 ふいに公子が手を突き出した。アドリアンは身を引いてその手から逃れようとしたが、間に合わなかった。公子はアドリアンの濡れた頬に触れ、輪郭に沿って優しく手を動かした。 「そう、こんな終わり方も悪くない。破れた恋を引きずって、ただの形骸となって生き続けるよりも。お前はデリラだな、私はサムソンだ。だが安心しろ、私は皆を巻き添えにして死のうとは思わない。一人で死のう」 アドリアンは縄の端を引いた。締め付けていくと、公子の美しい顔が苦痛に歪んだ。 デリラは旧約聖書きっての悪女として知られている。 自分に思いを寄せるヘブライの英雄サムソンを誘惑し、その弱点を聞き出した。サムソンは力の源である頭を剃られて力を失い、眼を抉られ、牢に繋がれた。 しかし力を取り戻したサムソンはその怒りで神殿の柱を薙ぎ倒し、多くの人々と共に瓦礫の下で息絶えたという。 「愛して、…おります、私も」 首に回した縄をギリギリと締め付けていく。確実に殺すそのためには、頚椎が折れるほどの力が必要だった。けれどどうしてもその力を入れることが出来ず、いたずらに公子を苦しめる結果となった。 公子の美しい顔は蒼白となり、唇は土気色になっていた。空気を求めてわななく唇がアドリアンの名を呼ぶ。 「……ヴォルフ……」 アドリアンは反射的に縄を引く手を緩めた。公子は激しく咳き込んだ。 「閣下……」 皆、この黄金に救いを求める。 何故ならこの黄金は人のためなら自分に泥が混じることも厭わない本物の黄金だからだ。 だからこそ殺すつもりだった。高潔で家族思いのこの黄金に泥を交えたくなかったから――。 「どうか」 アドリアンはついにその言葉を口にした。 口が裂けても言いたくなかった、その言葉を。 「助けて下さい。どうか、私を――」 そしてアドリアンは生まれて初めて声を上げて泣いた。 |
つづく |
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