冬の狼 20





 人は思いもかけぬ場所で思いも寄らぬ人に会うと驚くものである。
 アドリアンが下宿先に戻ると、そこには意外な相手が待っていた。
「コージモ・リーメンシュナイダーに頼んで待たせて貰った」
 寝台の上にはカール・ブロスフェルト・フォン・リンブルクが腰かけていた。
「逃げたのではないかと心配していた。もっとも門番には触れを回していた。隻眼の男が街を出ようとしたら捕えるようにと」
 この方は――。
 アドリアンは力なく笑った。
「陛下のお加減はいかがでございましたか」
「悪いな」
「左様でございますか」
「ヴォルフ、お前に問おう。皇太子ラインハルトが皇帝となるに必要とする期間はどれほどだ」
「皇帝選挙侯の過半数の賛同が得られましたのなら――」
「得たと仮定してだ」
「半年も必要ございません。アーヘン大司教は既に味方です」
 皇帝の即位には戴冠式が欠かせない。
 ドイツ国王たる、歴代の皇帝は常にアーヘン大聖堂で塗油を受け、戴冠するしきたりとなっていた。そしてアーヘン大司教はひそかにラインハルトの味方となっていた。
「坊主さえ居れば戴冠は出来るな。では、三ヶ月で行え」
「閣下?」
 昂然と顔を上げ、公子は言った。
「ヴォルフ、私は三月(みつき)の間だけこの国の王となろう」





 病床のヴェンツェル王が後継者としてカール・ブロスフェルト・フォン・リンブルクを指名したという噂はローゼンブルクの街を駆け巡った。野心家の叔父に王位を譲ることを良しとせず、王位継承権第二位の座にある従兄弟を直接名指ししたのである。
 しかし公子は病床の王にこう答えたという。
「陛下、貴方は必ず回復なさいます。ですが、国王不在が長引けば国は荒れましょう。だから陛下が回復するまでの間だけ私は国王を務めましょう。そう、三月(みつき)の間だけ」





――私を身内殺しにしたくなければ、三ヶ月で事を成せ。

 アドリアンは市門へと急いでいた。その懐に公子――アキテインの代王の勅書を抱いて。
 市門は八時を過ぎれば閉まる。
 ローゼンブルクの規約は厳密で、余程のことがない限り、それが破られることはない。市門の外にある葡萄酒農家直営の飲み屋(ホイリゲ)で羽目を外して遊び、門限に間に合わなかった放蕩息子などはそのまま朝まで城壁の外で過ごさなくてはならないほどだ。

――普通は思うであろな。待っていれば王冠は手に入る。焦ることはないと。死亡率九割、しかしこの病は一割は生き残れるのだ。それを忘れてはならぬ。

 そう、公子の言葉は常に正しい。
 三ヶ月と区切られた期間を思えば、一刻の猶予もなかった。
 じゃらじゃらと鎖が鳴り、滑車が巻き上げられる音がした。番兵が跳ね橋を上げようとしているらしい。
 アドリアンは勢いよく馬に拍車を掛けると、上がり始めた跳ね橋を一息に駆け上がった。
「物好きだな。冬に旅か?」
 風に乗り、番兵の呆れたような声が届いた。





 街や城は広大な森の海に浮かぶ島である。人々はその島々に寄港して旅をする。
 けれどそれも聖誕祭まで。聖誕祭を過ぎると厳しい冬が到来し、人々は旅を諦める。そして復活祭までの長い冬を、ぶ厚い壁で守られた安全な街や城の中に閉じこもり、春の訪れを待つのだ。
 けれど今年は、うだるように暑かった夏の反動からか、聖誕祭を待たずして冬将軍が到来した。
 かつての皇太子、皇帝の兄たるラインハルトはライン宮中伯のお膝元であるプファルツに身を寄せていた。その距離、約百二十五リュー。どんなに馬を飛ばしても十日はかかる距離だ。
 冬の最中の野宿は自殺行為である。アドリアンは開門と同時に街を発ち、短い冬の一日の間で出来るだけの距離を稼ぎ、閉門直前に街に滑り込むという日々を送っていた。
 昼過ぎから降り始めたその雪はやがて本格的な降りとなり、吹雪となった。
 馬の鼻面は凍てつき、手綱を取るアドリアンの手は既に感覚を無くしていた。猛吹雪に視界は遮られ、数歩先すら見えない。
 アドリアンは馬を下りると、街道脇に植えられた糸杉を目印に歩き始めた。
――もうすぐだ。
 アドリアンは自分に強く言い聞かせた。
 この勅書を渡せば、あの男に返せる。あの男から俺が奪った物を戻すことが出来る。
 それは決して償えぬと思っていた自分の罪だった。それ故にアドリアンはあの男から与えられるどんな恥辱も甘んじて受け入れたのだ。
 ラインハルト皇太子は穏やかで優しい、文人肌の高潔な男だった。その性格を御し易しと取られ、弟に皇位を狙う企みを起こさせたのだろう。
 死線を彷徨った後の皇太子は変わった。目的のためなら手段を選ばぬ、身内さえも踏み台とする冷血な男となった。まるで第二の鉄のレオンに成り代わったが如く。
 この世の生き地獄とも思えた牢から救い出された後、アドリアンはラインハルトの手により性技を仕込まれた。調教という名目の元に行われた辱めの数々を一生涯忘れることはないだろう。いつもラインハルトは憎しみをぶつけるようにして自分を抱いた。
 それでも。
 アドリアンは自分の懐に手を入れ。そこにある勅書を確めた。

――理由はどうであれ、あの男は俺をあの生き地獄から救い出してくれた。

 報いたかった、それに。
 償いたかった、決して償えぬと思っていた己の罪を。

 少しずつ吹雪は収まり、徐々に見通しが良くなってきた。
 と、糸杉の並木の間から黒い影が現われ、アドリアンの行手を遮った。
 総勢三騎。アドリアンの身体にさっと緊張が走った。
 街まではまだ距離のあるこんな場所で一体何をしているのだろう。騎士と言えども油断は出来ぬ。領主自ら盗賊騎士に化けるご時勢だ。
「どこへ行かれる」
 どこかで聞いた声のような気がしたが、騎士という人種は皆似ている。アドリアンは顔を合わせぬままに。
「プファルツへ」
「なにゆえ」
「行かせてくれ、家族が病気なんだ」
 無視をして通り過ぎようとしたその瞬間、背後からシュッという鋭い音が上がり、それと時を同じくして馬は悲鳴を上げて倒れた。馬は首をすっぱりと切られ、切断面から迸る血で雪は真っ赤に染まった。
 振り向いたアドリアンに鈍い銀色をした縄が迫ってきた。アドリアンは咄嗟に身を屈め、それをやり過ごした。
――コルドン・ダルジャン! 
 フランス語で銀のリボンの意味を持つが、言葉の響きとは裏腹、世にも剣呑な、必殺の武器であった。
 鋼を紐にし寄り合わせて造られた鞭状の武器で、表面は鋭く研がれ全体に刃が付けられている。扱いは極めて難しいものの、瞬時に相手を絶命させることが可能な必殺の武器であった。
 アドリアンはこの武器自在に操れる者を一人しか知らず、これからも現れるはずがないと思っていた。
――まさか。
 かじかむ手で腰帯の剣を抜いた。
 すると再び宙を切って銀の鞭が飛んで来た。降り止まぬ雪のせいで視界が悪い。アドリアンは音だけを頼りにコルドン・ダルジャンを遮った。
「ヴォルフ……、生きていたのか?」
 鎖の先で声がした。そしてアドリアンはそこにかつての盟友の姿を見出した。
「ウルリッヒ……」
 見間違えるはずもなかった。それはコルドン・ダルジャンの使い手、聖騎士のウルリッヒだった。かつて幾度も共に死線を潜り抜け、助け合ってきた盟友。
「お前がなぜ」
 騎士の中にやはり一人、二人見覚えのある顔があった。恐らくアドリアンが抜けた後、聖騎士に加わった面々だろう。騎士見習いの中によく似た顔の者がいたことを思いだす。
「獄で死んだと聞いた。死体は疫病の可能性ありと火葬にされたため、埋葬を見届けることも叶わなかった」
「見逃せ。俺はあの生き地獄の中からようやく逃げ延びたのだ」
「恨んでいるのか、お前を助けなかった俺を」
「いや、俺を助けようとしたのなら、お前もまた同じ運命を辿ったことだろう。あの方は背信を決して許さない」
「……」
 ウルリッヒは沈黙し、コルドン・ダルジャンの柄を握り直した。
「お前が生きているということは、あの噂も満更嘘ではないのかもしれぬ」
「噂?」
「皇兄が生きて、ライン宮中伯の元に身を寄せているという噂があった。そんな筈はない、皇太子ラインハルトは確かに死んだ。恐らく皇兄の名を騙る不届き者がいるのだろう。だからこうしてプファルツに出入りする者たちの動向を探っていた」
 ウルリッヒは銀の鞭を振り上げた。喉元に感じた風圧に、アドリアンは咄嗟に飛び退った。鞭は糸杉から張り出した枝を無残にも引き千切った。
「皇兄に止めを刺したのは、ヴォルフ、お前のはずだ!」
――捕えられたら最期だ。勅書を見られたらすべてが水疱に帰す。
 うねり、蛇のようになって自分に向かってきた銀の鞭。
 アドリアンはそれを長剣で阻むと、剣を回し絡め取った。
「生かして捕えろ! 油断するな! その男は聖騎士の副隊長だった男だ!」
 三対一、そして相手は聖騎士。分の悪い戦いだった。けれど生かして捕えろとのその命令が、アドリアンを格段に動き易くした。
 アドリアンは絡め取った長剣を思いきり引くと、ウルリッヒを馬上から引きずり落とした。
 残りの騎士たちが剣を閃かせてアドリアンに迫る。アドリアンは短剣を抜き出すと釦を押し、三叉とした。三叉短剣で剣を遮りつつ、鎖から長剣を引き抜いた。
 剣を横に薙いで馬の前脚を斬りつけると、馬たちはたちまち大混乱に陥った。
 暴れる馬を御し損ね、雪上に転がった騎士にアドリアンの長剣が迫った。
 短い悲鳴と血を迸らせて騎士は絶命した。
 騎士の一人は馬を棹立ちにさせ、アドリアンを足蹴にしようとした。アドリアンは馬の腹の下に入り込むと、三叉短剣で斬りつけ、馬を暴れさせた。
 騎士は振り落とされる前にと鞍から飛び降り、アドリアンと対峙した。
 騎士は剣を腰だめにして突っ込んでくる。アドリアンは三叉短剣でそれを受け、がら空きの腹部に剣を貫き通した。
「がっ…」
 騎士の顔が驚愕に歪む。騎士の腹から血まみれの剣を引き抜くと、騎士は前のめりになって雪上に倒れた。
「ヴォルフ!」
 背中に激しい衝動が走る。鋼の鞭はアドリアンの背を打ち、その肉を抉り、持って行った。
「……っ!」
 焼け付くような背中の痛みに耐え、アドリアンはゆっくりと振り返った。
 続けざまに第二打が飛び、アドリアンの手から三叉短剣を弾き飛ばした。
 斜めに銀の鞭がしなり、左肩から腰にかけてすっぱりと切り裂かれた。
 ウルリッヒは明らかに遊んでいた。脚を狙い、腕を狙い、けれどそのどれ一つとして致命傷は負わせなかった。
 アドリアンは相手に好きなようにいたぶらせながら、その実逆転の機会を狙っていた。
 機会は一度だけ、二度はない。 
 何度目かの打擲の後で、アドリアンの腹部に鋼の鞭がじゃらじゃらと巻き付いた。鞭が引かれると、鋼鉄はアドリアンの皮膚を食い破り、肉を切り裂いた。
「降伏しろ。でないと、このまま身体を輪切りにするぞ」
 そう脅すウルリッヒの眼にアドリアンは狂気の色を見出した。
 自分もそうだったのだろう。自分もまた、こんな狂気に満ちた眼つきをしてあの方の命令に従っていたのだ。
「――許せ、ウルリッヒ」
 アドリアンは言うなり、渾身の力を込めて長剣を投擲した。長剣はぐんぐんと勢いを増して飛び、ウルリッヒの胸元に埋め込まれた。
 ウルリッヒは鎖を手にしたままで後ろへ倒れ、鎖に引かれアドリアンもまた雪上を転がり、そのまま意識を失った……。





 眼を開けると、空から雪が舞い降りていた。
 既に薄暗かった。
 けれどそれが雪によるものか、それとも夜によるものか、まったく見当がつかなかった。
 あまりに沢山の血を流しすぎたためだろうか、身体を動かすことができない。
 横目で辺りを伺うと、死んだ馬や騎士たちが流した血で雪は真っ赤に染まっていた。まだ走れる馬はとっくに逃げ去ってしまったのだろう、そこに生き物の姿はなかった。
 アドリアンは震える手で懐に手を入れた。そこに勅書の存在を確認すると、安堵の息を付いた。
――行こう。
 アドリアンは剣を地面に突き刺し、それを杖代わりにして立ち上がった。
 どうか動いてくれ、俺の足。
 祈るような気持ちで一歩を踏み出す。足は辛うじて動いた。

――何としてでも届けよう。たとえ……俺の命と引き代えにしても。

 アドリアンはゆっくりと歩き出した。歩くそのたびに雪に血が落ち、点々とその痕を残した。





つづく
Novel