冬の狼 21





 目の前に足があった。
 よくなめされた綺麗な長靴――。
 城門前に辿り着いたところまでは覚えていた。
 歩哨の誰何の声に勅書を見せ、取次ぎを乞いたところで意識を失ったのだ。歩哨は勅書だけを受け取ると知らせに走り、アドリアンをその場に打ち捨てておいたのだろう。
 長靴の主は跪くと、アドリアンをその胸に抱き上げた。
 強く抱き寄せられると、覚えのある匂いがした。
「……」
「何も言うな」
 ラインハルトは吹雪の中、中庭を横切り、アドリアンを抱いたまま城内へと向かった。
「――よくやった」
 ラインハルトの声は微かに震えを帯びていた。
 泣いているのだろうか、アドリアンは思った。 
「ヴォルフ、お前はずっと私に罪の意識を抱いていたな、私にした仕打ちについて。だが、お前はひとつ忘れている。私の命の恩人も、またお前であったことを」
 そして声を絞り出すようにしてラインハルトは言った。
「死ぬな」





 それは、一つの帝国に皇帝が二人立つという異常事態、後に大双位と呼ばれることとなる時代の幕開けであった。
 皇帝選挙侯の過半数たる、エルスファーレン大公、ライン宮中伯、アーヘン大司教、アキテイン王、の四名がラインハルトをドイツ王として認めたため、かつての皇太子はラインハルト二世帝として即位し戴冠式を行った。
 戴冠式は慌しく質素に行われたが、アーヘン大司教が塗油を施し、正式な手続きを踏んで行われたものであり、その正当性を疑う者は誰一人として存在しなかった。
 新皇帝はそのまま帝都シュヴァーネンフリューゲル城に攻め入るという暴挙は犯さず、皇太子時代からの持ち城であったファルケンシュタイン城に向かった。鉄のレオンの圧政に苦しんでいた忠臣たちはかつての皇太子を歓喜して迎え入れ、新皇帝は無血入城を果たした。
 組織だった軍隊を持つレオンハルト三世帝であったが、もっとも有力、かつ強力な臣下であったヴェルフ伯が離反し、新皇帝派となったことにより、両者の力は僅差となった。
「願い信じていたにも関わらず、この仮面を取って歩ける日が来るとは思ってもいなかった」
 ラインハルトは仮面なしの素顔を見せて、玉座に腰掛けていた。
 波打つ黄金の髪はカール大帝を始祖とする皇帝家の男子の証である。レオンハルトとよく似た面差しを持つ美男であったが、その頬にはかつてアドリアンが付けた剣創があった。
「そして我が弟と対峙する日が来るとも」 
 アドリアンは満身創痍であったが、辛うじて命を取り留めた。
 けれど長い長い冬の間、ライン宮中伯の城の寝台に縛り付けられ、戴冠式も見届けることが出来なかった。ようやく立って歩けるようになったアドリアンの元に新皇帝からの使者が来、アドリアンはこの国にやって来た。
 新皇帝と旧皇帝は講和条約の締結にあたり、会見の場所に帝国に属さぬ中立国を選んだ。互いに相手の手の内に入り、暗殺されることを恐れたのだ。
 手勢は互いに十騎、城に入るにあたり武装を解く、それが会見の条件であった。
 大広間には講和条約の締結を見届ける役目を担ったこの国の貴族たちが互いに向かい合うようにして立っていた。
 ラインハルトとレオンハルトは互いのすり潰しを避けた。帝国において皇帝は名のみの存在である。
 お家騒動が明るみになれば、皇帝と同等、もしくはそれ以上の強力な力を持つ領邦君主たちは遠慮なく皇帝に牙を剥き襲い掛かって来ることだろう。
 二人は講和条約を結ぶ事とした。未来は知らず、今は。
 それは、アドリアンにとっては意外とも思える結末だった。
 実弟への復讐に燃えていたラインハルトはたとえ刺し違えたとしても弟の息の根を止めるだろうと思っていたし、当人も又そう公言して憚らなかったのだから。
「意外か? 私が奴と和解するとは」
 まるでアドリアンの心の内を読んだかのように、ラインハルトは言った。
「復讐は新たな復讐を呼び、憎しみは新たな憎しみを生むばかり。どこかで断ち切らねばならないのだろう、この負の輪廻を」
 ラインハルトは玉座のすぐそばに控えるアドリアンの手を取った。
「それに気付かせてくれたのは、ヴォルフ、お前だ」
 やがて先触れの声が響き、両開きの扉がゆっくりと開かれた。
 アドリアンはそこにかつての主君の姿を見た。





 会見は短かった。
 それぞれを支持する選帝侯を支配化に置き、帝国は二つに別れた。
 けれどそれはあくまで名目上のこと、皇帝は選帝侯を御す力を持たない。実際は皇帝が持つ領土と帝国自由都市を二つに分け、そのそれぞれを支配することとなった。
 細部の取り決めは宮宰と大膳頭に任せ、講和文書に印璽を押すと、会見は終了した。
 アドリアンは息を詰め、レオンハルトの一挙一動を見守ってた。
 少年から青年へと移り変わる頃、美しいと思い、崇拝したその男。波打つ黄金の髪、輝く瞳は緑玉。今なお水際立ったその美貌は衰えていなかった。
 しかし今のアドリアンにはこの男の本当の姿が見えていた。――金箔の張子の像。
 レオンハルトは椅子から立ち上がると、初めて正面からラインハルトを見据えた。その視線をラインハルトの傍らに慎ましく控えるアドリアンに移す。
「まさか、お前が黒幕だったとは」
 アドリアンは真っ直ぐにレオンハルトを見返した。ラインハルトもまた立ち上がると、二人の間に立ち塞がった。さながらアドリアンを庇うように。
 レオンハルトは吐き捨てるように言った。
「裏切り者が」
 一目見ることが叶えば、死んでも良いと思っていた。
 この男の病みきった魂を救うことが出来ないのなら、殺そうと思っていた。
 決して成就することのない、この絶望的な愛ゆえに。 
 アドリアンは懐からロザリオを取り出した。かつて皇帝レオンハルトその人から賜ったそれを。
 アドリアンが差し出したそれをレオンハルトは無下に払いのけた。
 石造りの床にロザリオが落ち、硬質な音を立てる。レオンハルトは二人に背を向けると、入り口に向かって悠然と歩き始めた。
「陛下、貴方は――」
 アドリアンはその背中に向けて言った。
「貴方は正しい方ではございません」
 徐々に小さくなる背中を見つめながら、アドリアンは哀しく思った。
 差し出したロザリオ、それを皇帝が受け取ったなら、殺す気になったかもしれない。殺し、共に死んだだろう。
 だが、泥の混じらぬ本当の黄金を目にした今となっては、金箔の張子の像を手に取る気には二度となれなかった。
「お前はもう自由だ、ヴォルフ」
 床に転がったロザリオを手にしたのは、驚いたことにラインハルトであった。このロザリオが意味する物を恐らくラインハルトは知らなかっただろう。それでも、何かを感じ取ったに違いなかった。
 ロザリオに付いた埃を払い、アドリアンに手渡す。
「その上で聞こう。このまま私に仕える気はないか」
 アドリアンはゆっくりと首を振った。
「残念だ。最後に一度、という訳にはいくまいか?」
「俺は貴様の負の部分を引き出す存在だろう。遠ざけた方が良い」
 アドリアンはそこでがらりと口調を変えて言った。
「どうか良い皇帝におなり下さい」
 ラインハルトは声を上げて笑った。
「ああ、なろう。かつてないほど良い皇帝に。他ならぬお前の言葉だからな。では、私の元から離れるお前に餞別を一つ」





 アドリアンは別室に連れて行かれた。
 レオンハルトと共にその部屋に入ると、部屋には先客が居た。
「ああ、ヴォルフ、貴方、……生きて……貴方が」
 先客はアドリアンの顔を見るなり、その胸に取り縋り、声を上げて泣いた。
 それはアドリアンの胸を刺していた第二の棘。
 エルスベト姫であった――。





つづく
Novel