冬の狼 4





 アキテイン王国において、王妃マリア・カロリーネの立場ははなはだ微妙なものであった。
 ヴェンツェル王との婚姻から既に十年の歳月を経たというのに、一向に懐妊の兆しがなく、宮廷人たちはひそかに彼女に石女の烙印を押していた。急進派の大臣たちの中には王妃を離婚し、神聖ローマ帝国皇帝の妹、エルスベト姫をアキテインに迎え入れてはどうかと注進に及ぶ者さえいた。
 しかしマリア・カロリーネ王妃は心根が優しく信心深いことで有名であった。王妃に優しく微笑みかけられると、さすがの急進派の大臣たちも王妃離婚論を却下せざるを得なかったのだ。
 その王妃は数多く抱える侍女の中で、市井の人であるエヴァンゼリン・リーメンシュナイダーを誰よりも可愛がっていた。
 生き馬の目を抜く王城にあり、裏表のない少女の性格が珍しくも好ましいものとして映ったのであろう。
 今日も今日とて、マリア・カロリーネ王妃はお気に入りの侍女と他愛のない噂話に興じていた。
「エヴァンゼリン、貴女の従兄の君は元気でいて?」
「あの者はわたくしの父の姉の嫁ぎ先の母親の甥でございますわ、王妃さま」
「先日ちらりとお見掛けしたけれど、凛々しく美しい殿方ね。女官たちが熱っぽく噂をしていたわ」
「まあ、王妃さま。そのお話、さっそくあの者に伝えておきますわ。さぞや光栄と思うことでございましょう」
「けれど――あの片目はどうされたの」
 エヴァンゼリンはコージモ親方から聞かされたアドリアンの半生を、まるで自分が見聞きしたことのように滔々と語った。
「あの者は元はマティルデ女伯さまの親衛隊員でございました。女伯さまの婚約をお祝いする団体騎馬試合の事故で失ったと聞いております。マティルデ女伯さまは自分の祝いの席での事故ゆえ大変心を痛められ、また加害者が同じ親衛隊の者だったという事情もあり、ヴェンツェル王陛下に懇ろな紹介状を書き送ったそうですわ」
「二十歳を過ぎての入隊など大変珍しいことだと思っていたけれど、まさかそんな事情があったとは」
 同情心の厚い王妃がそう言って嘆息した時、王妃の私室の扉を控えめに叩く音がした。
 お入り、の王妃の言葉とともに扉が開き、女官の一人が顔を覗かせた。
「王妃さま、リンブルクの公子閣下が参っておりますが」
「まあ、閣下が?」
 女官の言葉は二人の女に両極端の反応を引き起こした。エヴァンゼリンは顔にあからさまな怯えの色を浮かべて後退り、マリア・カロリーネ王妃は喜びに顔を紅潮させて立ち上がった。
「すぐにここにお通ししてちょうだい」
 ほどなくして童話の王子のように美しい、カール・ブロスフェルト・フォン・リンブルク公子がリュートを手に王妃の私室に現れた。
「ご機嫌はいかがでございますか、王后陛下」
 王妃は嫣然と公子に微笑みかけた。
「今日はどのような恋愛歌謡をお聞かせ下さるのかしら」
 カールは笑って布張りの椅子に腰掛けると、リュートの調音をした。最初はいたずら弾きの様子で弦を爪弾いていたが、やがて張りのある美しい声で歌いだした。



 かしこに鳴けるつぐみにも
 こころ動かす春はあり
 地に萌えいずる精霊に
 やさしき春の声はあり
 夢にも似たる人の世も 
 花咲く春よ さながらに



「ときに王妃さま」
 波を打って肩に流れ落ちる黄金の髪に午後の光が当たり、カールはまるでフレスコ画に描かれた天使のようであった。未だ余韻覚めやらぬ様子の王妃にカールはいとも典雅な声で尋ねた。
「国王陛下が鷹狩りを催されるとのお話は本当でございますか」
「まあ、お耳の早いこと」
 高価な猛禽を使っての狩りは、王者の特権であった。鷹狩りは常に壮麗に執り行われ、大勢の廷臣に取り巻かれ盛大に楽しむものであった。娯楽の場であると同時に勇気と技を披露する場でもあり、その開催は常に熱狂的に迎えられる。
「あれは貴方のお父上、リンブルク公爵のご提案でしたのよ、ご存知でいらっしゃった?」
 エヴァンゼリンは期せずしてカールと視線を見交わすこととなった。
――リンブルク公爵の提案?
 嫌な予感がした、とても。
 しかし意外なことにその言葉はカールにも動揺を誘ったようであった。普通の侍女なら気付かないであろう些細な変化、けれど余人よりも敏いエヴァンゼリンはそれを見逃さなかった。カール・ブロスフェルト・フォン・リンブルク公子は明らかに驚いていた。
「左様でございましたか」
「楽しみなことね、鷹狩りは一年半振りだわ」
「もしも私が首尾良く大熊を仕留めましたら、お褒め頂けますか」
 王妃はそれを請負い、王妃の私室を和やかな雰囲気が包んだ。私室を退くにあたり、カールはついうっかりといった様子でリュートを床に取り落とした。
 侍女らしい気遣いを見せ、リュートを拾い上げ差し出したエヴァンゼリンに、カールは聞こえるか聞こえなきかの小さな声で囁いた。
「君に一つ忠告しよう。言動にはくれぐれも注意を。君の片目の騎士にもそうお伝え願おうか」




「一本取られたな、エヴァンゼリン」
 ローゼンブルクの街を見下ろす丘の上で、アドリアンは楽しそうに笑い声を立てた。エヴァンゼリンが公子の言葉を一字一句違えず告げた直後のことだった。
「他人事みたいに言わないでよ」
 つんと唇を尖らせると、エヴァンゼリンは草地に腰を下ろした。この丘の上からはローゼンブルクの街が手に取れるように望めるのだ。薔薇の城砦との典雅な名と百の搭を持つアキテイン王国の首都。
「でも、おかしいとは思わない?」
「何が」
「あの騎士たちがあたしたちを襲ってからもう一ヶ月になるって言うのに、何の音沙汰もないじゃない」
「だから言ったろう、脅しだと」
 アドリアンは長剣を腰帯から引き抜くと、つぶさに点検しながら言った。
「お前が余計なことを口にしなければそれで良し。今回の忠告は――、言わば駄目押しだな」
 アドリアンはひょいと肩を竦めると、ごろりと横になった。
「こんなのってないわよ。ひどいわよ。あたし、リンブルクの公子さまには憧れてたのに」
 アドリアンは性質の悪そうなにやにや笑いを浮かべて、エヴァンゼリンを見た。
「へええ、お前さんがねえ」
「あら、ご挨拶ね。公子さまは本当に美しいのよ。あんただって公子さまの姿を一目見たら崇拝せずにはいられなくなるわ」
「エヴァンゼリン、俺を誰だと思ってる。国王陛下の親衛隊だ。遠目にだが、リンブルクの公子閣下は見たことがあるよ」
「じゃ、近くで見ていないせいよ」
「お前はどうあっても俺を男色家に仕立て上げたいらしいな。成程、公子は美しかろう。だがどんなに美しくても、それだけで崇拝する気にはならない。男は中身が伴わないと」
「公子さまは頭も良いと思うけど――。あ、そうそう、もう一つおかしなことがあるの」
 あることを思い出し、エヴァンゼリンは騒ぎだした。
「リンブルク公爵の提案で鷹狩りを催すんですって。でも公子はその話を知らなくて、とても驚いた様子だったの。ねえ、変だと思うでしょう? あの二人が結託してないはずがないのに!」
「そいつは妙だな」
 相槌を打つも、アドリアンは気もそぞろな様子だった。
「どうしたの? アドリアン」
「え?」
「あんた、今日変よ」 
 何が、とはハッキリ指摘できない。けれど何かが変だった。
 自分や自分の周囲の事を他人事のように話す。飄々としていてどこか掴み所がない。それらはアドリアンの特徴で、エヴァンゼリンをしばしば激怒させる要因であった。が、エヴァンゼリンが引っ掛かったのはその部分ではなかった。
 エヴァンゼリンはその理由に自分で気が付いた。
 鷹狩りの話を軽く受け流されたからだ。
「鷹狩りの話、知ってたの?」
「ああ、だいぶ噂になってるからな」
「そう」
 狩猟は城びとにとって一大娯楽である。誰しも飛び付き楽しみにし、毎日のように噂する。大きな獲物を仕留められば昇進の機会もあるのである。アドリアンのような親衛隊員がそれを楽しみにしないはずがなかった。なのに――。
「楽しみね」
「そうだな」
 アドリアンはなぜか昏い瞳で言い、エヴァンゼリンは視線にいぶかしさを乗せてアドリアンを見返した。





 リンブルク公爵とその息子、カール・ブロスフェルト・フォン・リンブルクとの足並みは揃っていないと聞かされていた。公子は国王擁護派で、野心家の父を快く思っておらず、ときに妨害をすることさえある。だから仲間に引き入れていないのだと。
「親衛隊員の中に我の子飼いが居ると話してはいるが、それがお前だとは知らぬ。リンブルク公爵は腹芸ができぬ男だ。知らぬままの方が良い」
 仮面の男はこの国に腰を据えると決めたらしく、城壁外に屋敷を借りていた。富裕な亜麻農家の屋敷で、周囲の目を欺くため、亜麻商人との触れ込みで作男ごと借り受けていた。
 仮面の理由は疱瘡のあばたを隠すためとなり、多くの取り巻きも護衛も豪商ゆえと思われ、今のところその素性を目的を怪しむ者はいなかった。
 男がアドリアンに直接接触してきたのは最初の一度だけで、それ以降は間に人を立てるようになった。だが重大な用件を伝える時だけはこうして直接会い、ついでのように人払いをすると組み敷いた。
「どうだ? ――こっちの方は」
 屋敷の広い主寝室の窓からは美しい亜麻の花が望めた。
 背後から激しく突きながら、男はアドリアンの屹立を握った。張り出した笠の線に沿って親指の腹が滑らされる。親指と人差し指で鈴口を開かされ、アドリアンは苦痛の声を上げた。
「こっちまでは仕込む暇がなかったからな」
 男は寝台の寝藁から麦藁を一本引き抜くと、鈴口に無造作に押し当てた。押し当てたまま、見せ付けるように先端だけを出し入れした。
「や、止め……」
「痛いか」
 男は麦藁の端を持ち、一、二度上下させた。
「く……ッ…貴様…ッ…」
「ここまで犯される気分はどうだ?」
 痛みに跳ねる身体を押さえつけ、二度三度と麦藁を動かす。
「お前の逞しい身体が痛みと快楽に震えるさまが堪らない。どんな女よりも――そそられる」
 麦藁の先端が柔肉を突き、鋭い痛みを与える。アドリアンは歯を食い縛ってその激痛に耐えた。男は挿し込む角度を変えて、引っ掛かり止まったその場所からさらに深い部分に挿し入れていく。
 反らされた背から汗が伝って流れ落ちる。痛みと、膀胱を食い破られるのではないか、という恐怖ゆえに。先端が膀胱に届く手前で、アドリアンはびくりと身体を震わせた。
「ほう、ここか」
 感じるその部分に気付き、男は麦藁を執拗に抜き差しした。
「ああッ……っ…」
 背後から腰を押し付けられ、ちょうど両側から感じる部分を刺激される形となった。ぐりぐりと背後からしこりの部分を押し潰されて、前方から麦藁で刺激を与えられ、アドリアンは堪らず首を振った。だらしなく開いた唇からは飲みきれなかった唾液が溢れる。
「――せ……」
 敏感な粘膜をこそげ落とすようにして麦藁が動かされ、アドリアンは叫んだ。
「一思いに俺を殺せッ!」
 脚間で張り詰める屹立からはひっきりなしに蜜が溢れていた。麦藁で射精を食い止められているため、達きたくても達けない。
 背後から回された男の腕がアドリアンの首に掛かり、そのままぐっと締め付けられた。万力のような力で締め付けられて息が詰まる。限界を感じたその時、ようやく男の手が緩んだ。
「殺すはずがなかろう。お前は我の大事な駒だ」
 男の手が再び深く麦藁を穿ち、その先端が膀胱に突き刺さった。びくびくと身体を小刻みに痙攣させ、アドリアンはついに失禁した……。





 さわさわさわ、夕刻の風が亜麻の花々を揺らして行過ぎる。アドリアンは一つしかない瞳で、寝台からその花々を眺めていた。
 あれからどれくらいの時間が経ったのだろう。共に全裸だった。
 いつもそうだ。この男と交わった後は指一本すら動かしたくないほど疲弊する。
「恨んでいるのだろう、俺を」
「我がか?」
 アドリアンに背を向け休息を取っていた男は、その言葉を聞くや、こちらに寝返りを打った。  
「いや、我はお前を同類だと思っている。互いに深く信じていた者に手酷い裏切りを受けた者同士」
 男は手を伸ばし、アドリアンの背中に走る、深く大きな何本もの古傷を指の腹で撫でた。
「裏切り者には復讐あるのみだ。しかしお前はどうかな?」
 アドリアンは答えなかった。それは自分自身結論が出ていない問題であったからだ。
 はたして自分は復讐を望んでいるのか、いないのか。
「リンブルク公爵に肩入れするのは、アキテイン国王が皇帝選挙候だからだな」
「鋭いな、ヴォルフ」
「気の長い話だ」
「いやそうでもないぞ。この企てが成功すれば過半数を越すのだ」
 アドリアンは弾かれたように顔を上げた。
 皇帝選挙候、それは名の通り、神聖ローマ帝国皇帝を選ぶ権利を持つ諸侯のことである。これまで六人存在した皇帝選挙候を奇数にするため、アキテイン王が加わり、七名となっていた。
「正攻法がもっとも早く、かつ危険が少ない」
「その正攻法のためにどれほどの血を流すつもりだ」
 アドリアンの問いに、しかし男は答えなかった。





つづく
Novel