冬の狼 5





「六月の鷹狩りなど珍しいことね」
「きっと秋まで待てなかったのでございましょう」
 扇の下で貴婦人たちが囁くように、狩猟の季節は秋から冬にかけてとされている。秋になると動物たちは来るべき冬に備えて脂肪をためこむ。その脂ののった肉を狙うのである。
 だがいつの世にも例外はあり、狩猟は世にも楽しい娯楽であった。珍しいと囁かれこそすれ、開催に異議を唱える者はいなかった。
 ローゼンブルク郊外の森には王家所有の狩猟館がある。その狩猟館の前庭のあちこちに野営用の天幕が張られ、椅子が置かれていた。
「王妃さま、少しばかり席を外してもよろしゅうございますか」
 マリア・カロリーネ王妃の天幕の下で、エヴァンゼリンはためらいがちに切り出した。
「行ってらっしゃいな、エヴァンゼリン。わたくしもあなたぐらいの年には、騎士の真紅のマントをめくってみたいと思ったものよ」
 意図を悟られて、エヴァンゼリンはたちまち真っ赤になった。
「ご、御前を失礼いたします!」
 人でごった返す前庭をエヴァンゼリンは小走りに駆け抜けて行く。ほどなくして、エヴァンゼリンは隻眼の親衛隊員を見つけだした。
「おや、君の小さな恋人が来たようだね。御機嫌よう、エヴァンゼリン」
「こんにちは、ハインリヒさま」
 エヴァンゼリンは膝を折って親衛隊長に挨拶した。
「今日はどのような獲物を捕えるおつもりですか」
「赤鹿を仕留めて皆に振舞えるとよいと思っているよ。こちらは大熊狙いかもしれないが」
 こちら、と言いながらアドリアンを見る。
「嫌ですね、俺が大熊を仕留めて副隊長の座を狙おうとしているとでも思ってらっしゃるのですか」
「副隊長の座どころか、お前は隊長の座さえも狙いかねない男だ」
「褒められたのだと思っておきますよ」
「それでは、私は失礼しよう。人の恋路を邪魔する奴は馬に蹴られると言うからね」
 隊員の一人に声掛けされたのを潮時にハインリヒは去った。
「アドリアン、お願いがあるの」
 黒馬に黒砂糖の塊をやっていたアドリアンは、いたってのんびりと答えた。
「わざわざ確約を取らなくても大丈夫だ。賞品の狩猟用の鷹はお前にやるよ。せいぜい高く売りつけて婚資金にでもするんだな」
「ちょっと、何言ってるのよ」
「賞品のおねだりに来たんじゃなかったのか?」
「まるで、もう大熊を仕留めたような口振りね」 
 大仰なため息をつくと、エヴァンゼリンはできるだけ真剣な面持ちを作って言った。
「嫌な予感がするのよ。季節外れの鷹狩り、それを提案したのはリンブルク公爵。そして狩りには不慮の事故が付き物だわ」
 エヴァンゼリンはアドリアンの手を両手で包み込むようにして握った。
「お願いよ、王さまを守ってね」




 アドリアンは森から獲物を追い出す役目を仰せつかっていた。槍を持ち、狩猟犬を連れて、黒馬を走らせる。
――エヴァンゼリンは鋭い。いつでも。
 猟犬に激しく吠え立てられ、茂みから赤鹿が飛び出した。猟犬をけしかけ追い立てながら、アドリアンは思った。
 気を付けろ、ひょっとしたら足元を掬われるかもしれない。
 王さまを守ってね、その言葉を聞いた時、まるで心の中を見透かされたような気がした。
 ばさばさばさ、鳥の羽ばたきが耳を打った。槍を回して、鷹持つ国王が待つ南側へと追いやる。
――何、邪魔になるのなら殺せばいい。
「エヴァンゼリンを?」
 馬を停止させると、地面に槍を突き刺した。その衝撃で穴兎が驚いて巣穴から飛び出す。
 瞬間、凶暴な殺意が身内を貫いた。
 ビロードのような柔らかな毛並みを持つ穴兎。槍で貫こうとして思い留まった。
「黙れ、ヴォルフ」
 アドリアンは自分の心の中の悪魔に囁いた。





 馬を歩み進ませ、国王の隣に並び立つと、カール・ブロスフェルト・フォン・リンブルクは言った。
「お天気に恵まれ、ようございました、陛下」
「そなたの父上に礼を述べねばなるまいな」
 ヴェンツェル王が空に向かって皮手袋を嵌めた手を伸ばすと、鳥篭から解き放たれたばかりの鷹が力強い羽ばたきと共に、その手に舞い降りた。
「しかしまだ獲物が森から追い出されて来ないようだ」
「様子を見て参りましょう」
 カールの弟、ルードビィヒが如才なく言って、森に向かって馬を走らせたようとしたその時、森から鳥の群れが飛び立った。
「出たな!」
 王は快活に言って、鳥たちが出た方向に馬首を巡らせた。
 続いて大きな赤鹿が森から飛び出す。鷹持たぬカールには絶好の獲物の筈であった。しかしカールは赤鹿に見向きもせず、王の後を追った。
「陛下! 鷹匠の腕前、見せて頂きたく。――ルードビィヒ、私に続け」 
 弟にそう告げると、カールは王に続いて森の中に入った。
 カールは今日は王を一人にせぬと決めていた。むろん護衛も近習もいる。だが有事の心構えがあるとないとでは雲泥の差がある。そしてカールは彼らに心構えをさせるつもりはさらさらなかった。
 父上が――、疑われる。
 鷹は空を切ってぐんと飛び、遥か上空で鳥を捕らえた。
「お見事でございます」
 賛辞に気を良くしたか、王はさらに森の奥深くへと分け入った。
 再び鳥の群れが飛び立ち、王は有頂天となった。
「また出たぞ!」
 カールは王の巧みな鷹匠の技ではなく、その周囲を見ていた。森を抜ける小道は細く、一騎が走るのがせいぜいである。
 危険だな、カールは思い、その危惧はすぐに現実のものとなった。
 茂みの間にきらりと光る弓の穂先を見つけたのだ。
 王に注意する暇もあらばこそ、矢は鋭い風切音と共に飛び、国王の馬を射抜いた。
 馬はいななき、前脚を蹴り上げて棹立ちとなった。
 護衛や近習が取り付き、手綱を取ろうとしたが、既に遅かった。
 馬はたてがみを振り乱し、森の狭い小道を狂ったように駆け出した。
 カールは馬に鐙を掛けると、誰よりも早く国王を追った。





 アドリアンは一つきりの片目を閉ざし、周囲の音に耳を傾けていた。
――矢尻には馬を興奮させる薬が塗られている。
 男はそう言っていた。
 リンブルク公爵にアドリアンの名を伏せたように、射手の名もまた伏せられていた。企てが失敗に終わった時、吊るされる者を最小限で食い止めるためである。
――王が馬に振り落とされて死ねばよし。振り落とされなければ……。
 アドリアンは昂然と顔を上げた。アドリアンの鋭敏な耳が、土を蹴散らす蹄の音を捉えたためである。 
 森を抜ける道は一本だけ、国王の馬は来るだろう、ここに。問題は王が乗っているか、否か。
 アドリアンの片目は捉えた。十馬走ほど前方に現れた馬を。
 はたして騎手は――、……いた。
 アドリアンは自身の黒馬を道の脇に退避させると、国王の馬が近付くのを待った。
 男の言葉が耳に蘇った。
――その時こそお前の出番だ。
 口角から泡を噴く暴れ馬が目の前を通り過ぎようとするその刹那、アドリアンは鐙で馬の横腹を蹴り、まるで投擲機から発射された石の如き迅速さで、小道に飛び出した。
 たぐいまれな騎乗術を駆使して、アドリアンは国王の馬の尻にぴったりと張り付いた。
 アドリアンは知っていた。間もなく道は途切れ、森の中にぽっかりと開けた広大な草地に出る。そここそが勝負の場であった。
 落馬させるもよし、落馬を装って首の骨を折るのもよし。
 目撃者は国王の覚えもめでたい親衛隊員、すなわち自分だ。万に一つも疑われることはないだろう。
 それこが男が書いた筋書きだった。
 間もなく草地に出ようする時、アドリアンは背後から迫る蹄の音を聞いた。
 国王の騎馬を待ち伏せをしていた自分以外にも暴れ馬に追いついた者がいるらしかった。
 アドリアンは振り返って確めることさえしなかった。
 護衛か近習か、いざとなれば纏めて葬り去ろう。国王を助けようとして巻き添えとなった忠義者の役割を押し付けて、自分はその目撃者となればよい。
 道が切れて前方に光が見えた。
 国王の馬が草地に飛び出すと同時、アドリアンとその馬は隣に並んだ。
 併走しながら馬上より身を乗り出し、国王の馬の手綱を取った。
 国王は凄まじい速さで疾駆する暴れ馬の背中にしがみつき、振り落とされまいとしていた。
「よくやった!」
 背後から飛んだその声にアドリアンは驚いた。威厳に満ちたその声はまさしく王侯貴族の物、王侯が暴れ馬に追いつくなど――。
「そのまま走り続けよ!」
 振り返ったアドリアンはそこにカール・ブロスフェルト・フォン・リンブルクを見た。
 瞬間、息子の亡骸を抱えて嘆く新王、リンブルク公爵の幻視が浮かんだ。
 すぐにその幻視を打ち消す。いかな野心家のリンブルク公爵とて息子の死と引き換えの戴冠を喜ぶまい。
 男の目的は自分の言いなりとなる王を作ること。リンブルクが息子を殺されてなお言いなりになる男とは到底思えなかった。
 結論は瞬時のうちに下った。
――中止だ。
 アドリアンは手綱を取ったまま、互いの馬を接近させつつ、併走を続けた。
 手綱を少しずつ引き絞り、暴れ馬の速度を弱めていく。
「見事だ!」
 公子は言って、自身の白馬に鐙を掛け、暴れ馬の右隣に馬を付けた。
「陛下! どうかこちらにお移りを!」
 公子の意図を悟ったアドリアンはさらに強く手綱を引き絞った。救うのならば急がねば――。もうすぐ草地が切れる。
 公子が馬上から腕を目一杯に伸ばしていた。
 速度が緩まることにより、国王にも余裕が出て来たのかもしれなかった。必死にしがみついていた馬上から身体を離し、上体を上げた。
 公子はさらに馬の速度を上げると、手綱を口で咥えて両手を空けた。そして王の胴体を掴むなり、暴れ馬から引き摺り下ろした。王が公子と向かい合う形で姿勢を落ち着かせると、手綱を手に持ち替えて、馬を停止させる。
 アドリアンは王が救出されたのを見届けるや、強く引き絞っていた暴れ馬の手綱を放した。
 馬はそのまま草地を疾駆すると、再び森を抜ける小道に入り込み、まっしぐらに走り去っていった。
 公子に遅れること数刻、護衛や近習たちが血相を変えて現れ、王を引き取ろうとした。王は手を挙げて性急な近習を制し。
「カール、そなたに感謝を。そして――」
 王は受けた衝撃の後遺症からか全身を震わせながら、それでもしっかりとした語調で言った。
「確かアドリアン、であったな。後ほど褒美を取らせよう」
 アドリアンは騎士礼を取り、それに応えた。
 王が狩猟館に運ばれていくのを見、アドリアンもそれに続こうと、鐙を踏んで馬に跨った。その背中に向けて公子の声が掛かる。
「アドリアン、と言うそうだな」
 アドリアンは馬上で身を伏せ、恭順の意を示した。
「私を知ってるだろうか」
「カール・ブロスフェルト・フォン・リンブルク公子閣下と存じあげております」
「見事な騎乗術であった」
「いえ私など。運良く公子閣下が居合わせなければ、国王陛下の救出など決して叶わなかったことでございましょう」
 アドリアンは真実そう思っており、それゆえにその言葉には真実味があった。
「だが一つだけ腑に落ちぬことがあるのだ」
 再び一礼し、今度こそ鐙を掛けようとしたアドリアンに畳みかけるように公子は言った。
「よくぞ私に陛下を託したな、片目の騎士よ」
 それは公子がエヴァンゼリンを通して自分に送ってきた伝言の中にあった呼び名だった。公子の唇は微笑みの形を取っていたが、その蒼氷色の瞳は決して笑っていなかった。
 咄嗟に考える。自分が知っていること、知っているとされていること。
 知っているとされていることは、公子を疑い、怯えるエヴァンゼリンの考えと同じになるはずだった。エヴァンゼリンは公爵と公子の間の不協和音を知らない。
 逡巡は一瞬、アドリアンは無難な答えを思いついた。
「お目を見て判断致しました」
 どうやら極上なのは、顔だけでも騎乗術だけでもないらしい、アドリアンはそう評価を下した。  





つづく
Novel