冬の狼 6





 三百余の領邦国家を抱える神聖ローマ帝国。
 だが、それを統べる皇帝は名のみの存在であり、領主は自分の領地をあたかも単独国家のように治めていた。そのため、帝国は決まった首都を持たず、皇帝の居る場所がすなわち首都とされていた。
 皇帝レオンハルト三世の居城、シュヴァーネン・フリューゲル(白鳥の翼)城。その名の通り、城は市街の北はずれの切り立った崖の上に、白鳥の翼を思わせる双翼棟を広げて轟然とそびえ立っていた。
 その城搭の上に一人の騎士の姿があった。濃霧と湿気の立ちこめる中、吹き付けてくる氷の粒を含んだ風に目を凝らしていた。
「何を考えておいでなの、ヴォルフ」
 ふいに背後から美しい、けれど聞き覚えのある声が掛かった。騎士はマントを翻すと、その美しい声の主の前に跪いた。
「皇妹殿下」
 それはレオンハルト三世帝の妹、エルスベト姫であった。
「正直に仰って?」
「私はラインハルト殿下のことを考えておりました」
 その言葉を聞くや、エルスベト姫は声と同様に美しい顔を曇らせた。
「貴方はやはり覚えていてくださったのね、あの悲運の兄上のことを――」
 前皇帝ルードビィヒ二世は跡継ぎを定めぬまま、ふいの病によりこの世をみまかった。ルードビィヒ二世には男性の嫡子が二人。ゲルマンの長子相続の原則から、皇帝の座は兄であるラインハルトが受け継ぐ筈であった。
 その理に反旗を翻したのは、弟であるレオンハルトであった。レオンハルトは古代ローマ法の末子相続を振りかざし、真っ向から兄と対立した。あまたの家臣とそれぞれの親衛隊を巻き込んだ血みどろの権力闘争の末、ラインハルトは闘争に敗れた。
 ラインハルトが居する翼棟が焼けたのである。表向きは火事による事故死とされていた。蜜蝋で手紙に封をする際に誤って引火したもののだろうと。けれどそれを鵜呑みにする者は誰一人いなかった。 
「し、死体には――」
 エルスベト姫は手で口を覆って泣き崩れた。
「き、切り傷があったと聞きました……」
 ヴォルフはいたたまれない思いで、エルスベト姫の啜り泣きを聞いていた。啜り泣きに混じり、兄上…兄上……と嗚咽混じりの囁きが漏れる。
 今日はその悲運のラインハルト皇太子の命日であったのだ。
 レオンハルトは僭主と呼ばれこそしなかったが、皇帝を選ぶ権利をないがしろにされた皇帝選挙侯たちは、彼をひそかに簒奪皇帝と呼んではばからなかった。
 しかし武力を男爵や侯爵頼みとしていた歴代の皇帝たちと違い、レオンハルトは組織だった軍隊を持っていた。そしてその軍事力を行使して、異議を唱える者たちを次々に粛清していったため、諸侯たちはいつしか皇帝を魔王のように恐れ敬うようになった。
 レオンハルトは形骸になりつつあった皇帝の権威を取り戻そうとしていたのだった。
「わたくしは今夜兄上の墓前に花を手向けに行くつもりでおります。ええ、皇帝陛下がそれを禁じていらっしゃるのは百も承知。けれどかつての皇太子が城の片隅の土饅頭の下、墓守もおらず。あまりにも兄上がお可哀想で……!」
 ヴォルフは静かに言った。
「私がお供をつかまつりましょう」
「そのようなことは夢にも仰られてはなりません。貴方は皇帝陛下の聖騎士。このことが陛下のお耳に入れば、貴方の立場はひどく難しいものになりましょう」
「それでも私はご一緒したいのです、殿下」
 ヴォルフの言葉をエルスベト姫は真摯に受け止めた。
「冬に美しい花を探すのは難しいことね。わたくしが聖エリザベートであったなら、パンを薔薇に変えることができたのに」
 聖エリザベートとはパンを薔薇に変えたという「薔薇の奇跡」の伝説を今に残す、チュービンゲンの聖女であった。
「聖エリザベートのような聖女になられたいと?」
「いいえ、わたくしは神など信じません。もしもこの世に正義の裁きがあるというのなら、聖ミカエルはどうして兄上をお救いしてくださらなかったの。十字架のない墓に眠っている兄上がいったい何の罪を犯したというのでしょう。兄殺しのレオンハルトに皇帝の証たる塗油を施したのは、神の代弁者であられる大司教ではないこと!?」
 ヴォルフは驚き、瞳を見開いた。
「ごめんなさい。わたくしは貴方が皇帝陛下の聖騎士(パラディン)であることを忘れていたわ」
 エルスベト姫は城搭の壁龕から身を乗り出し、眼下に広がる濃霧を眺めた。
「皇帝陛下は恐ろしい方。わたくしも女でなければ、きっと兄上と同じ運命を辿ったことでしょう。ヴォルフ、わたくしは貴方にお聞きしたいことがあるの」
 エルスベト姫はすがるような視線をヴォルフに向けた。
「もしもわたくしが陛下に反逆を企てたのなら、貴方はわたくしを斬って?」
 ヴォルフはそれに即答することができなかった。
 それを答えと取ったのかもしれない。
「朝課の鐘が鳴る刻限に、薔薇園でお会いいたしましょう」
 エルスベト姫は小さなため息をひとつだけ落とすと、石造りの螺旋階段を静かに降りて行った。





 素晴らしい満月の夜だった。
 薔薇は栽培が非常に困難なため、一部の特権階級だけが薔薇を愛でる愉しみを甘受していた。そのため、城の薔薇園の鍵は庭師と皇族しか持たず、密会には最適の場所であったのだ。
 ヴォルフが約束の刻限に薔薇園に行くと、既にエルスベト姫は待っていた。姫はどこで手に入れたのか、腕一杯に水仙の花を抱えていた。
「侍女と共に谷に行って取って参りましたの。慌てたものだから手がこんなに――」
 差し出して見せたエルスベト姫の手にはいくつもの小さな切り傷があった。
 ヴォルフはそこに姫の今は亡き兄への愛を見た。切り傷のあるその手に己の手を重ね、軽く握り締めた。
「ヴォルフ、貴方は昔、わたくしに話してくださったわね。貴方が生まれた、葡萄畑に囲まれた小さな村のことを。貴方のお家のことを」
 ヴォルフの生まれた村はフランスとの国境近くにあった。古くからローマ人たがち移り住み、葡萄酒作りの技法を教えたとされる地方であり、ドイツ人には珍しいヴォルフの黒髪も、ローマ人の末裔である証拠だと村では言われていた。
「ローマ法を守る村だから、末子の貴方が騎士となったと聞いたわ」
「生まれた時から黒い毛がふさふさと生えていたから、狼の子のようだと言われて――」
「だからヴォルフ(狼)と」
 視線を合わせて小さく笑いあった。エルスベト姫は水仙の花を抱え直すと静かに言った。
「ヴォルフ、わたくしは皇女でなくてもよいのです」
 エルスベト姫はヴォルフの首に腕を掛け、懸命にしがみついた。名を呼びながら背中に手を回す。
「ああ、鳥のように自由になってここから飛び去ってしまいたい。皇女ではなくひとりの女となり、貴方の妻となり、貴方によく似た子供を産みたいのです」
 エルスベト姫はまるで小さな子供のように泣きじゃくった。ヴォルフはいたたまれなくなり、姫を腕の中に抱き寄せた。
「そこにいるのは、エルスベト殿か」 
 反射的に振り向いたヴォルフは月光の下に照らし出されたその姿に絶句した。
 女は既婚夫人の証である顎を包み込む帯状の布の付いた頭巾をかぶっていた。雪花石膏の白さがむしろ暗いものと思えるほどの白い肌、血のような真紅の瞳がこちらを静かに見下ろしていた。
「……妃殿下」
 特異な白子(アルビノ)の容貌は誰知らぬ者があろう。レオンハルト三世帝の妃、アリアーナ妃殿下であった。
「密会の相手は誰と思ったが、ヴォルフではないか。これは驚いた、まさか聖騎士(パラディン)の副隊長とは」
 アリアーナ妃は唇を三日月の形に歪めると、高らかに笑った。





 ヴォルフは皇帝の前にひきずりだされた。
 レオンハルト三世は黒備えの鉄鎧を身につけて、宝石の嵌めこまれた豪奢な玉座に腰掛けていた。
 腰まで伸ばしたブロンドの髪はカール大帝を始祖とする皇帝家の男子の象徴である。ブロンドの髪と緑玉の双眸を持つ皇帝は威厳に満ち、美しかった。
 大広間にはあまたの家臣と騎士たちが居並び、ヴォルフを見下ろしていた。
「顔を上げよ、ヴォルフ」
 皇帝の言葉は氷のように冷たかった。ヴォルフは悪夢の中にいるような心持ちで顔を上げた。
「申し開きしたいことはあるか」
「陛下、私は陛下に臣従の誓いを立て、剣を捧げた騎士でございます。その私がどうして陛下を裏切れましょうか」
 皇帝は玉座から憤然と立ち上がった。
「この後に及んで何を申す。我が妃がそなたたちの密会の現場を見たと言っているのだぞ」
 言い逃れはできなかった。
 アリアーナ妃は女らしい嫉妬心からか、皇帝が自分以外の者へ向ける寵愛を許さなかった。恐らく常日頃からヴォルフを失脚させる機会を狙っていたのだろう。
 狙われたのは確かだった。だが、証拠を握られた責は自分にもある。
 亡きラインハルト殿下への懺悔の念が、エルスベト姫への同情が、およそ思いつく限りの最悪な形となって自分に跳ね返ってきただけのことだった。
「市中引き回しの末、街の城壁に吊るしてやろうと思ったが、エルスベトが泣いて命乞いをする。それに免じて、命だけは助けてやろう。だが二度と日の目は見せぬ」 
 皇帝は唇に酷薄な笑みを浮かべた。ヴォルフはこの笑みを過去に幾度となく目にしてきた。
 火事を装い実兄の殺害を申し付けられたときも、異教徒の生皮を剥げと申し付けられたときも、皇帝はやはりこの悪魔――地獄の堕天使の微笑みを浮かべていたものだった。
 ヴォルフはいつの日か自分にこの笑みが向けられるだろうと予期していた。予期しながらも、離れることができなかったのだ。
「牢に入れる前に、その狼の眼を一つくり抜いてやろう。その眼はどうも癪にさわる」
 皇帝は立ち上がると同時、腰帯に差していた短剣を引き抜いた。
 衛兵たちが暴れぬようにヴォルフを取り押さえに掛かる。ヴォルフは驚愕に眼を見開いた。その眼にずぶりと短剣が差し込まれる。
 大広間に居合わせた人々の間に恐怖に満ちたざわめきが広がった。
「目玉ひとつであれほどの血が流れるとは思わなかった」
 ヴォルフが流した血で真紅に染められた絨毯を見た皇帝は、そんな言葉を近習にかけながら大広間を後にした。家臣も騎士たちも次々に退出して行き、大広間にはヴォルフと衛兵だけが残された。
 ややあって衛兵は言った。以前のヴォルフの身分にふさわしい敬意を払い、罪人相手には丁寧にすぎる言葉で。
「ご同行を願えるでしょうか、副隊長殿」
 死ぬほどの苦痛の中で、ヴォルフは未だ自分の身に起こったことが理解できずにいた。





 酔いが全身に回っていた。
 番兵たちが好む、安い劣悪な蒸留酒。それを瓶の口から直接注がれ、無理やり飲まされた。たちまち酒精が胃を焼き、足腰に力が入らなくなる。
「ほら、ちゃんと舐めろよ」
 崩れ落ちたその身体を引き上げられ、頭を押さえつけられた。無理やり開かされた口に番兵の屹立が押し込まれる。
 ヴォルフの前に取り付いた番兵は髪を鷲掴みにし、喉を性器に見立てて突いてくる。えづきが生理的な涙を誘った。
 歯を立てると殴られると骨身に染みていた。口を大きく開き、させるがままとした。唾液が顎から首へと伝って流れ落ちる。
 男はヴォルフの口の中で一度大きく震えた後で射精した。射精の途中で強引に引き抜かれ、顔に精液を浴びせかけられる。
「へへ、じゃ、俺は後ろを頂くぜ」
「ぐ……っ」
 充分な慣らしもないまま、背後から強引に捻り込まれ、その衝撃で胃液が逆流した。
 逃れようと力の入らない腕で懸命に這い進むが、すぐに足枷がそれを阻む。枷が当たる足首の部分は擦れて血が滲んでいた。 
 腰を掴まれ、男の脚のつけ根が当たるまで、その怒張を受け入れさせられる。
 ぐいと引かれて、再び奥まで突き込まれた。胃液が口にまで込み上げてくる。
「っあ……! っん、……っ」
 ヴォルフは皇帝城の牢に入れられていたが、やがて市街の外周にある要塞の地下牢へと移された。
 与えられる物は、腐りかけた粥と男たちから注がれる精液だけ。
 抵抗するといつも足腰が立たないほどに殴られた。かつては自分が歯牙にも掛けなかった最下層の人間たちである。
――ああ、ここに長剣がたった一本でもあれば、こいつらの脳天をかち割ってやるのに!
「上の口でも咥えてもらおうか、副隊長さんよ」
「おら、歯食い縛ってないで、イイ声で啼けよ」
 どんなに抗っても許されない。何度飲んで、何度受け入れても許されない。耐え切れず気を失うと、また奴らに弄ばれる朝が来る。
 これがあの方のために罪なき者を手に掛けてきた罪の報いなのか。
 あの方に認められることしか考えず、すべてを切り捨ててきた、その報いなのか。
 非情になりきれなかった中途半端の報いなのか。
 このままで終わるのか。
 一生この日の差さぬ牢獄で番兵たちに代わる代わる弄ばれながら、ひたすら命が尽きる日を待つのか。
 俺が。聖騎士(パラディン)たるこの俺が……!

――嫌だ!






「アドリアン! アドリアン!」
 肩を激しく揺さぶられて、目を覚ました。
 ランプを掲げた金髪の少女がアドリアンを心配そうに見下ろしていた。
「いったいどうしたの? ひどくうなされていたわ」
 アドリアンは寝台から身を起こすと、周囲を見回した。
 見慣れた仕立て屋の二階。シュヴァーネン・フリューゲル城も要塞の地下牢も、すべては幻のように消え失せていた。
「昔の夢を見たんだ……」
「うなされるほど怖い目に遭ったことがあるの?」
 眼の事故のことね、言って、エヴァンゼリンは左眼を覆う眼帯に手を遣った。
 知らず、残る眼から涙が溢れていた。ぬぐってもぬぐっても、流れる涙は止まらない。
「アドリアン、どうして泣くの……?」
 エヴァンゼリンが尋ねたが、アドリアンはどうしても答えることができなかった。何度エヴァンゼリンが尋ねようとも――。





つづく
Novel