冬の狼 7





 アドリアンがエヴァンゼリンに初めて会った時、エヴァンゼリンは十二歳だった。
「貴方がお父さまのお姉さまの嫁ぎ先のお母さまの甥子なのでしょう。お会いできて嬉しいわ」
 恐らくコージモ親方から聞かされた自分との関係を丸暗記したのだろう。こまっしゃくれた口調であったが、アドリアンは瞬時にこの子は只者ではないと悟った。この春から行儀見習いのために王城に上がるという話を聞いて、さらにその確信を強めた。
 間もなく年頃になるであろう娘が居る家に独身男性を下宿させる訳には……と悩んでいたところだけに丁度良かったとコージモ親方は言って、さっそくアドリアンを部屋に案内しようとした。
 階段に足をかけたその時、アドリアンはマントの裾を引かれた。振り返ると、子供はアドリアンを手招きした。小さな子供によくやるように身を屈め、尋ねごとをするそぶりをした。
 すると子供は突然アドリアンの首っ玉にかじりつくと、その耳元で囁いた。
「ね、貴方の眼帯姿、とても素敵ね」
 何故か救われたような気持ちになったことを、アドリアンは今でも鮮明に覚えていた。





「あー、暑いー!」
 エヴァンゼリンは馬上でそう叫ぶと、ドレスのカラーのあたりを指で引っ張った。
「絶対不公平よ。女はどんなに暑くても腕も足も出しちゃいけないんなんて。殿方は腕も足も見せ放題なのに」
「殿方らを誘惑しないように禁じられてるんだろう。それに俺は出してないよ、エヴァンゼリン」
「アーダムを唆したエーファみたいに? 欲求不満の坊さんたちが言いそうなことね」
 例年になく暑い夏だった。まだ七月に入ったばかりだと言うのに、毎日毎晩うだるような暑さが続いていた。風はそよとも吹かず、ローゼンブルクの住民は悲鳴を上げていた。
 アドリアンはリンブルクの公子と共に国王を救った功績で、親衛隊の副隊長に取り立てられていた。大熊を仕留めた訳でも賞金の鷹を貰った訳でもなかったが、結局のところアドリアンの言葉通りの結果となったのだった。
「で、例の場所はまだなの?」
「いや、もうじきだ」
 アドリアンとエヴァンゼリンは連れ立って、再びローゼンブルク郊外の森に来ていた。
 エヴァンゼリンは先日王城の中庭で行き会ったアドリアンに尋ねたのだ。うだるような暑さの中で萎れきっている王城の女たちを喜ばせる物はないかと。
 ああ、それなら良い所があるとアドリアンは請負い、その場所の下見へと連れ出したのだ。
「林檎の木の枝が小道にはみだしてたから、狩りの邪魔になるだろうと切り落としたんだ。獲物を追い出す時に見つけて驚いたよ」
「まあ」
 エヴァンゼリンはアドリアンが指差す方向を見て、驚きの声を上げた。
 その小さな林檎の木には色とりどりの蝶々が張り付いていた。
 どうやら枝のあった部分から樹液が流れ出し、連日のこの暑さでそれが発酵したらしい。蝶々は樹液を吸うと、酔っ払ったようにひらひらと飛び、空中で一回転し、再びひらひらと飛び続ける。
「素敵、素敵、素敵だわ!」
 感激に声を震わせるエヴァンゼリンを横目に、アドリアンは肩を竦めた。
「女は蝶々が好きだな。俺なんかあの燐粉に触れただけで寒気がするよ」
 王城に戻ろうと馬首を巡らせるが、エヴァンゼリンは一心不乱に蝶たちの饗宴に眺め入っており、一向に戻る兆しも見せない。
 アドリアンは呆れたように笑うと、すぐ戻ると言い置いて、その場所を後にした。





 馬をひとしきり走らせ、アドリアンは目当ての湖に辿り着いた。
 周囲を確めると、アドリアンは衣服を脱ぎ捨て、湖に飛び込んだ。冷たい水が肌を刺し、うだるような暑さも、アドリアンを悩ませる諸問題も、水に溶けて消えていくような気がした。
 一度深く潜ってから、湖上に顔を出し、腕で水を切って泳ぎだした。夏の日差しが水面を輝かせ、水中には光の矢が広がっていた。水の流れがまるで自分の肌のように感じられる。
 何もかも水に流し去ってしまいたかった。あの男の汗を唾液を精液を、身体のあちこちに深く刻印されたあの男の所有の証を――。
 水を掻いて、再び湖上に顔を出した。
 容赦のない夏の日差しがアドリアンの裸身をあらわにする。
 アドリアンは胸に付けられた鬱血の痕を指で触れて確めた。
 昨日は、男の上に跨り、自分で動くことを強要されたのだ。

 感じてしまわぬよう、それでいて相手を早く達かせようと、アドリアンはおぼつかぬ動きで腰を使った。
 下から伸ばされた男の指が敏感な頂きを摘み上げると、たちまち膝が崩れる。急かすように尻を叩かれ、アドリアンは再び腰を振り始めた。
「親衛隊の連中に見せてやりたいものだな。お前の今の姿を――」
 するはずがない。見せる訳がない。それを知りながらも、その可能性を考えるだけで羞恥に全身が灼けつくような気がした。
「ふ、副隊長か。むしろ遅すぎた気さえするが」
 アドリアンの腰を掴むと、男は下から腰を激しく突き上げてきた。
「っ……!」
 絶望に瞳を見開き、アドリアンは男を受け入れた。既に何度も交わり精液を注がれた内壁は女のそれのように粘った湿つく音を立て、さらなる羞恥を煽る。
「お前と別れた後はいつも思う。次はどうしよう、どうして虐めてやろうかと」
 うだるような暑さだった。汗は滝のように流れ、アドリアンの身体をしとどに濡らす。
 何もかも腐らせる夏の暑さが男の何かを狂わせたのかもしれない。
 男は執拗だった。貪るように口付け、唾液を飲ませ、アドリアンの全身に鬱血と歯型を散らした。
 感じやすい頂きを舐められ、含まれ、歯を立てられて引かれると、悦びに全身が震えた。
「そしてお前はいつも我の期待に応えてくれる。その身体も、仕事も」
「は……っ……止……んっ!」
 男はアドリアンの腰を引いて、屹立を引き抜くと、先端だけを含ませた。浅い、感じる部分だけを狙って擦られ、アドリアンは喘いだ。
「お前の判断は常に正しい。王はお前を信頼した。そしてリンブルクの公子の働きにより、リンブルク公爵もまた信用を取り戻した。そう、悪くない筋書きだ」 
 男はアドリアンの腰を抱え直すと、根元までそれを埋め込んだ。いきり立ったその怒張で腹をかき回され、アドリアンはよがり啼いた。
「っ、ん……ああっ…ああっ」

 耳を覆いたくなるような自分の嬌声が耳に蘇り、アドリアンは恥じて唇を噛んだ。
――次の機会を作ろう。
 男はそう言って、アドリアンと別れたのだった。

 湖の水で顔を洗い、岸に戻ろうと池から這い上がった、その時だった。
 アドリアンはそこに意外な人物の姿を認めた。
 カール・ブロスフェルト・フォン・リンブルクだった。照りつける暑い夏の陽ざしの中、世にも涼しげな顔つきで、こちらを見ていた。
 尾けられたのだと瞬時に悟った。
「大層な傷痕だ」
 王侯だけが持ち得る不遜さをあらわに、公子は言った。アドリアンの背中に走る、深く大きな何本もの古傷についての感想だろう。 
 アドリアンは騎士の礼を取ると、岸に置いてあった衣服を手に取った。
「すべて戦で得た傷なのか?」
「片目は騎馬試合で」
「戦は寝込みを襲われたのだろうか。鎧甲冑を身に付けての戦なら背に傷は付かない」
 レオンハルト三世の聖騎士隊は陰謀と謀殺を専門とする騎士団だった。そう、その騎士団にいたアドリアンが得た傷は戦などではなく、すべてその活動下で得たものだった。
――公子さまは頭も良いと思うけど。
 アドリアンは今さらながらエヴァンゼリンの洞察力に感服した。
 言葉にしては静かに。
「城の門番が贈賄によって懐柔されておりました」
 それで通じるだろうと思った。門番が城門を開け、それにより奇襲を受けたのだと。
 公子の視線を背中に痛いほど感じながら、アドリアンは潅木に繋いでいた馬の背から布を取り、濡れた身体を拭いた。
「君にひとつ伝えておきたいことがあった」
「何を、でございますか」
「私は陛下の敵ではない」
「存じています」
「だが、私の父はその限りではない」
「閣下の父君は陛下の敵でいらっしゃると?」
「そうだ」
「それを私に告げて、どうせよと」
「どうもしない。ただそれを知れば、君は動きやすくなるだろう。誰が敵で誰が味方なのか判らない状態では、正常な判断を失いがちだ」
「閣下はどうかしていらっしゃる。私がこのまま陛下のところに行き、リンブルク公爵に謀反の疑いありと告げるとはお思いにはなられないのですか」
「君が私の見込み通りの男なら、そのようなことはしないだろう。証拠がない」
 衣服をすっかり身に付けてしまうと、アドリアンは公子に向き直った。
「不穏な動きが耳に入ったら、私に知らせてくれると有り難い。私は全身全霊をかけて王を守るつもりでいる」
 アドリアンはそれに答えなかった。
「水浴びの邪魔をして申し訳なかった。ときに君は随分と情熱的な愛人を持っているようだ。いつも一緒にいる侍女殿、ではないな?」
 公子は笑いながら馬上の人となった。王城に向けて馬首を巡らせると。
「男の歯型だ」
 公子はそう言い残すと、アドリアンの返事を待たず、勢いよく鐙を掛けた。





「兄上」
 常のように控えめに扉を叩く音がしたかと思うと、ルードビィヒが顔を出した。
「遅くまで何をされているのですか」
「いや何も。手紙を書いていただけだ」
 カールは羽ペンをインク壷に戻すと、書きかけの手紙を脇に押しやった。ルードビィヒは兄が腰掛ける椅子の背後に回り込むと、その首に腕を絡めて抱きついてきた。
「どうした、ルードビィヒ。まるで子供のようだな」
「何か良いことでもございましたか。今宵の兄上は楽しそうに見えます」
 カールとルードビィヒは到底腹違いとは思えないほど仲の良い兄弟だった。カールの母の死後、リンブルク公爵の第二の妻となったルードビィヒの母も夭逝した。共に母がいないこと、そして子供のような父を守ろうという気持ちが二人を結託させたのかもしれなかった。
「ああ、今日はとても興味深い人間に会った。そのせいかもしれない」
 まるで野生の狼のような男だった。
 身元は既に調べていた。元マティルデ女伯の親衛隊員で、市参事会員を務める王室御用達の仕立て屋コージモ・リーメンシュナイダーの親族。完璧な経歴だ。
 だが、何かが気に掛かる。ドイツ人らしからぬ、あの黒髪のせいか。それとも、あのむごたらしい傷跡のせいか。
 そして、これ見よがしに全身に付けられていた、鬱血と男の歯型。
「兄上が人に興味を持たれるなどお珍しい」
「不思議か?」
「どんなに美しい姫君にもどんなに麗しい貴婦人にも兄上は見向きもされない。私はご婦人方に兄上の心を射止める方法を何度聞かれたことか」
「お前は何と答えるのだ」
「兄上の仮面を外すことが出来たのなら、恐らく――、と答えていますよ」
「仮面?」
「兄上の決して変えられない表情のことですよ。兄上のことを王城の貴婦人がなんと呼んでいるかご存知ですか? 氷細工の公子さま」
 言い得て妙だと、カールは唇に笑みを刻んだ。
「そんな兄上の婚約者を父上が決められたようです」
 カールは驚いて顔を上げた。
「やはりご存知ありませんでしたか」
 王国一、否、帝国にあっても富裕な公子と縁組みを望む者は多かった。公女、伯女、果ては外国の王女に至るまで、公子への縁談は雨あられのように降り注いだ。
 だが今日に至るも、カールが独身を貫いているのは、公子がまだ早いと一蹴したのが第一の理由。第二の理由としてリンブルク公爵の意向があった。
 いずれ自分が王となり、自分の子が王子となるであろうという思いが並外れた傲慢を生んだのだろう。公女も伯女も外国の王女も公のお眼鏡には叶わなかった。帝国一、欧州一の花嫁を願い、選り好みをし続けた結果、未だカールに婚約者は存在しなかった。
「いつまでも兄上ばかりに頼ってはいられません。父上の様子が不審でしたので、人をやって調べさせたのです」
「父上のお眼鏡に叶う姫がいるとは恐れ入った。だがなぜそれを私に隠す」
「兄上が断ると思われたからでございましょう」
「父上はまさか私に婿に入れとでも言うつもりではないだろうな。どこの大国の王女だ」
 ルードビィヒは神妙な面持ちで言葉を継いだ。
「王女ではございません。――皇妹でございます」





つづく
Novel