冬の狼 9





 カール・ブロスフェルト・フォン・リンブルクは皇妹との婚約を了承し、男とリンブルク公の蜜月は終わりを告げた。
 男はすぐに戻ると言い置いて、アドリアンに浮気防止の印を付け、アキテイン王国を去った。
 男はリンブルク公に見切りを付けたのだ。新たに傀儡として操れる皇帝選挙侯を物色しに行ったに違いなかった。
 開放された気にはならなかった。なぜか奇妙な寂しさが残った。
 奇しくも男が口にした通り、騎士は王侯の慰み物、遊び道具だ。男がどれほどの執着を見せようとも、自分に利用価値がなくなれば、いとも簡単に切り捨てることだろう。
 それが王侯貴族というものなのだ。





「だって皇妹よ。あの鉄のレオンの妹なのよ」
 大広間で偶然会ったエヴァンゼリンは興奮しきっていた。けれど、あの、の部分でぐっと声を潜め、恐怖を演出することも忘れない。
「どういうこと? 公子さまはやっぱりアキテイン王になるつもりなのかしら」
――私は陛下の敵ではない。
 迷いなく言い切ったその言葉がアドリアンの耳に蘇る。信念を簡単に覆すような男ではないだろう。だとしたらなぜ皇妹との婚約を了承したのか。
「きっと毒蛇みたいな姫なのよ。でも鉄のレオンは目の覚めるような美男子だって噂だから、その妹も美人かもしれないわね?」
 同意を求められ、アドリアンはゆっくりと言った。
「ああ、皇帝は堕天使のように美しいと、聞いたことがある」
「綺麗な毒蛇? 公子さまは怖くないのかしら。そんな姫を寝台に引き入れようなんて」
 カール・ブロスフェルト・フォン・リンブルクが皇妹と言えども女を怖がるような玉とは到底思えなかったが、アドリアンはとりあえず気のない相槌を打った。
 扉が勢いよく開かれ、国王が戸口に現れたため、エヴァンゼリンは膝を折り、アドリアンは深々とお辞儀をした。
 続いて国王の取り巻きたちが入ってきた。廷臣たちに混じり、リンブルクの公子がいた。
――あんただって公子さまの姿を一目見たら崇拝せずにはいられなくなるわ。
 エヴァンゼリンの言葉が今こそ真に迫った。公子には華があった。
 あれが王侯というものなのだ。騎士は王侯という太陽の光を受けて輝く月に他ならない。月は太陽がなければ輝けない。だからこそ、どんなに隷属的な立場に置かれようとも、離れることができないのだ。
「あ……」
 アドリアンとエヴァンゼリンの目の前で一人の貴婦人が躓いた。
 アドリアンは騎士らしく手を差し伸べ、貴婦人を転倒を救った。つい先日フランスからお輿入れしたばかりの貴婦人で、驚いたためだろう、柔らかなフランス語で言った。
「ご親切に、ムシュー」
「Je vous en prie. (どういたしまして)」
 貴婦人が去ると、エヴァンゼリンは目を丸くしてアドリアンを見た。
「ちょ、ちょっと、何? 今の? フランス語? あんたは郷士だって聞いてたけど、本当はもっと良い身分じゃないの?」
 フランス語とラテン語の習得は貴族のたしなみとされているが、郷士とは貴族身分の最下位である。その郷士身分のアドリアンがフランス語を口にしたのがさだめし意外だったのだろう。アドリアンの袖を掴んで、ぐいぐいと引いてくる。
「何言ってんだ。俺はフランスの国境近くの村で生まれたんだ。あそこじゃ戦があって領主が代わるたびに言葉も代わるんだよ。フランス語が話せないと爺さんとも話せねえ」
「そうなの? そう言えば、あんたの家の話は初めて聞いたわ」
「――君たちはいつも一緒にいるようだ」
 突然声を掛けられて驚く。
 リンブルクの公子であった。
 一体どこから聞いていたのだろうか。たった一つの過ちがその身の破滅を生むとも限らない。アドリアンの背筋に冷たい汗が流れ落ちた。
「わたくしたちは親族でございますわ、公子さま」
 アドリアンの目にもエヴァンゼリンは立派だった。内心の怯えをおくびにも出さず、にこやかにそう答えた。
「それにしてはあまり似ていないようだ。金髪と黒髪とは」
 アドリアンはひやりとした。公子は唇に薄っすら笑みを刷いていたが、その蒼氷色の瞳には冷たく冴えた光があった。
「遠縁でございますもの」
「侍女殿、君の騎士に話があるのだ。少し席を外してくれないか」
 エヴァンゼリンは一瞬けげんそうな顔つきをしたものの、すぐに優雅に膝を折り、その場から離れた。
「遠乗りに行く相手が欲しいのだ、君なら私のヴァイスに付いて来られるだろう」
 ヴァイス(白)とは恐らく公子の愛馬の名前なのだろう。目が覚めるほど白く、早かったあの馬のことが目に浮かんだ。
 アドリアンは言った。他に何と答えられようか。
「喜んで、閣下」





 中庭で馬に乗り込むと、そのまま城外へ向かった。
 公子は最初は早足で、街を抜けると駆け足で馬を走らせた。公子はまるでアドリアンを試すように、跳ね橋を渡り、垣根を飛び越え、困難の多い道を選んで走った。
 先日までの暑さはなりをひそめ、涼しい風が森の木々を揺らしていた。木立ちが途切れた空き地まで来ると公子はようやく馬を停止させた。
「流石だな」
 鐙を踏んで馬から下り、木立ちに馬を繋ぐと公子は言った。
「私のヴァイスに付いて来られる者はそうはいない」
「光栄に存じます」
 アドリアンはカール・ブロスフェルト・フォン・リンブルクの真意を測りかねていた。
 先日の接触は、国王を守るために自分を味方に引き入れるためだと思っていた。だが、そんな男がどうして皇妹との婚約を了承したのか。
「貴殿はマティルデ女伯の親衛隊員だったそうだな。マティルデ女伯はどのような主君であったか?」
「お美しく、かつ聡明な方でございました」
 まるで巧妙に張り巡らされた蜘蛛の巣に落ちたような気がした。気を付けて答えぬと蜘蛛の糸に絡め取られて蜘蛛の餌食となろう。
 公子は心持ち首を傾け、真っ直ぐにアドリアンを見ていた。その蒼氷色の瞳に逆さまに自分が映っている。
「出身はどこだ? ドイツ人で黒髪は珍しい」
 アドリアンは考え考え、ゆっくりと言葉を紡いだ。心臓の鼓動は早鐘を打ち、アドリアンに警鐘を鳴らしている。
――決して尻尾を掴まれるな。
「私はフランスの国境近くの村で生まれました。古くからローマの植民地だった村でしたので、この黒髪もローマ人由来のものかもしれません」
「エルザス、それともロートリンゲンか。村の名は?」
「閣下」
 アドリアンはその呼びかけに戸惑いの色を混ぜた。
「君の情熱的な恋人はどうした?」
 公子はアドリアンに近付くと首筋を確めるように触れた。そこに情事の名残りはなく、公子は値踏みするようにアドリアンを見ると。
「それともそのきっちりと着込んだ服の下に情事の痕を隠しているのか」
 腰を引き寄せられ、驚く間もなく唇が寄せられた。唇が重ねられ、舌が差し入れられた。そのまま舌を絡ませてくる。濡れた水音が耳朶に響いた。
 冷たい怒りが身内から湧き起こるのを感じた。
――しょせんは王侯か。
 アドリアンは腰帯から剣を引き抜くと、鞘を付けたままで公子の腕を打った。
 かなり強い力で打ったが、公子は顔色一つ変えなかった。
「威勢が良いな」
 敬語をかなぐり捨ててアドリアンは言った。
「俺が剣を捧げた主君は国王陛下だけだ」
「国王以外には従わぬと? 成る程、大した忠犬ぶりだ。貴殿のような騎士を持った陛下は幸せ者だ」
「貴方もそうではなかったのか。貴方は全身全霊をかけて王を守ると言った。けれどその舌の根も乾かぬうちに、今度は皇妹との婚約を承諾する」
 公子はアドリアンの手を取ると、巧みに掌を、甲を愛撫してきた。指間に指を挿し入れられ、動かされると、背筋に堪らない快楽が走る。
 引き寄せられ、首筋に顔が埋められた。
「鉄のレオンの真意を見抜けぬほど貴方は愚かではないはずだ」
 公子はアドリアンの首筋に頭を埋めたままで言った。甘い息が掛かる。
「父上の望みなのだ」
 愛撫の手は止まったが、公子はその腕にアドリアンを抱き止めたままでいた。
「貴殿とて家族はいるだろう。家族はかけがえのない物であると同時に弱みでもある」
 再び公子の手が動く。うなじをくすぐり、指で頬を撫でる。絶え間ない愛撫を受けながら、アドリアンは内心別のことを考えていた。
 アドリアンは家族を人質に取られていた。
 逃げたら最後、故郷の家族を皆殺しにすると脅されていた。だからこそ逃げられず、こうして男の言いなりとなり、国王暗殺の企てにも加担した。
 そうだ、人のことなど言えはしない。自分の忠義とは一体何なのか――……。
「私は一体どうすればよいのだろうな」
 ゆっくりと手を引いて絡めた指を離す。公子はいつもの氷の表情を浮かべてはおらず、僅かだが、人間らしく見えた。
 公子の問いがまるで自問のように聞こえ、アドリアンは返す言葉を失った。





つづく
Novel